啓発舎

マジすか? マジすよ

わかりやすいところでは、コルトレーンは、どうでもいい、では聴けない。
モーツアルトもそうだ。
モーツアルトは、聞こえてくると、聞き耳をたててしまうところがある、私は。
イージーリスニングっぽいのは、どうでもいいので、そもそも聞かない。
ビルエヴァンスは、夜だ。

シューマンは、どうでもいい音楽なのではなくて、どうでもいい、という音楽、私には。

音楽を聴かずに「読む」奴、クラシック界周辺には、実はこの種が多い、コンサートで、やってる最中もプログラムとにらめっこしてる奴らね、は、シューマンというとクララだのロマンだのプッツンだのむやみにブンガクするが、そんなの関係ねえよ、聞こえる音楽には。

ということであります。


じゃあ、他のメンツはどうか。
バッハさんなんてどうでしょうか。
バッハはどうでもよくないなあ。
どうでもいいであってほしいのだが、私としては。
バッハは、自分の頭の中でも鳴らせるんですよ。
たとえば、無伴奏チェロの、えーと、1番のサラバンドとかを今から3分裡なる自分に聞かせて、ああいい音楽を聴いた、ということができる。
別にマイスキーに登場してもらう必要はない。
堪能した、と。
すごいですねおれさまは、じゃなくて、バッハが。

鳴らせるのは、誰でもできる、やってみ。

音の構造物。


午後といえばカフェ、ここ自由が丘のカフェ・ド・おフランスで優雅なマダムやらおしゃれなお嬢さんのおともをつとめるのはおフランス音楽できまりだ、語尾上げ話法のそれでーだからーの咆哮にめげずに、ハープだのフルートが今日もけなげにへろへろと。


これも違う、決してどうでもよくはない。
とことんどうでもいい環境によく引っ張り出されるのがこれらの音楽の受難の歴史ではあるが、音楽自体は、「どうでも」よくない。

ドビュッシーなんか、そうはいかない。



それからすると、シューマンさんは、えらい。

どうでもいい、というのは、たぶんいまの私の最上の時間の鑑賞というか、えーい観照といってしまえ、のしかたであるのであるが、シューマンさんはそれに、のる。

いや、いまだけかもしれないよ。
たまたま、私のゆらぎとばっちりシンクロしているだけかもしれない、いま。
明日はかわるかもしれないが。


不思議な音楽です。