啓発舎

マジすか? マジすよ

演奏会の当日は、昼ごろ集合してステリハして着替えして袖に集合してチューニングして最後の準備して、と、結構段取りがある。
慌ただしいのではあるが、合間に、手持無沙汰の時間ができる。


楽屋脇のソファで、出待ちで例によってぼーっとしていると、向かいに黒タキボウタイの兄ちゃんが、腰をおろす。同じ楽器のSさんだ。
ところで、同じ楽器をやるもの同士は、案外音楽の話はしない。少なくとも、私はそうだ。趣味は人それぞれということもあるが、地雷を踏みたくない、ということもある。
進んで、一般に、楽器やる奴は、どういうわけか、音楽以外でもあまりしゃべらない奴が多い。向かいの兄さんもそうだ。

しばらくは、向かい合って黙っているのだが、さすがに、と、どちらからともなく一言二言。
実は、このお兄さんは、音楽に対する感受性で、私が一目も二目もおいている人だった。

ここで話がいったんそれる。
長くなるかもしれないが、書けるところまで、書く。


楽器をやるには技術がいる。
技術はスポーツだから、反復練習で習得する。
それとは別に、音楽に対する感受性が要る。
当たり前のことで、音楽が愉しくなければやる意味ない。

ところが、特にクラシック畑の場合、この当たり前のことが、非常にしばしば閑却される。
ガキのころから叩き込まれるから、ほんとはあたし音楽好きじゃない、というお嬢ちゃんが、はたちすぎまでピアノとにらめっこ、という事例が多い。いま、ピアノと書いたが、なぜだか、ピアノに多い気がする。
弾いてる本人はわからないが、傍で聴けばすぐわかる、こいつ音楽嫌いだろう実は、ということが。
才能ではない、そこそこ指はまわるしリズムもとれる、そうではなくて、音と遊ぶよろこびがあるかないか、モーツアルト弾かせるとすぐわかる。
音大ピアノ科の8割ぐらいはそうじゃないだろうか。
ヴァイオリン属は、音を自分で作らないといけない。きらいだと音が苦痛だから、自分で自分に対する拷問に耐えず、好きじゃないやつはほとんど途中で投げ出すということはあるかもしれない。

ところで、音楽を作る感性と受容する感受性は不可分だ。
私は弦楽器だが、こういう音が出したいという気持ちと、こういう音を聴きたいという感性は、だいたい共通する。
あたりまえですよね。
あたりまえだけれども、聴きたい音は、聴けるところに行って聞けばいいが、他力本願だが、こういう音を出したい、という音は、なかなか出てくれない。
今言ってるのは技術とはちょっと違うはなしだ。
音符で真っ黒けの譜面を涼しい顔で弾きまくる、というのとは少し違う。
だから、なにかの拍子に自分でそういう音を作れてしまうときもある。
楽器をやる喜びのほとんどは、その瞬間に自分が立ち会うことだ、少なくとも私はそうだ。

で、戻るが、向かいのお兄さんは、そういう音を普通にだせる人なのだった。

技術とはちょっと違う、くどいか。
休憩時間になると、みんなてんでにおにぎりくったりさらったり始めるのだが、チェロ弾きは、だいたい、曲さらうのに飽きると、バッハの無伴奏の任意の舞曲を手癖でやりはじめる。

それを聞いているとだいたいわかる。

指がまわる奴はいくらでもいる。特に弦楽器の場合、一度に出す音は、普通ひとつだから、音程だの音色だのを二の次にすれば、たくさん音数を出すこと自体はそれほど難しくない。ピアノと違って、一音ずつだしていけばいいのだから。


肝心なのは音楽として、どうか、ということだ。

言語を介在しないコミュニケーションとして、どうか、ということだ。
で、彼は、言葉の疎通はあまりしないが、音のコミュニケーション、これは相手が人間とは限らない、鳥とか樹とか空とか雲とかと交信するようだ。ということだ。
少なくとも私は勝手に受容する。


この話は、この先行くと音楽をはなれ「ぼーっとする」ことに言及しないとならず、寸止めが効かなくなる。
ぼーっとするのは、単にぼーっとしていることにしたい、このブログでは。


で、S氏にもどす。
共通の話題は音楽しかないから、結局そっちになり、そういえば、ということで、ブラームスハンブルグの汽笛について、と自身の体験を披露していただいた、というあたりで、この話はいったん閉じる。
またつづくかもしれない。