東京堂の各紙書評コーナーで立ち読みしていて、突然、面白くない、ということは、いったいどういうことなのだろう、という問いが私を占拠した。
もちろん、そのとき飛ばし読みしていた本がその問いの直接のきっかけであることは論を俟たない。
仮にハスミという奴だとしよう、その本の著者を、仮に。
ところで、ヴァイオリン属は弓で弾く。弓には馬のしっぽが張ってあるが、弾かないときは緩める。そのためネジがついている。弾くときだけこれをきこきこやって、ピンと張るんですね。
最近そのネジのオスメスでいうと、メスのほうがばかになって、一定以上きこきこやると、ずるんと緩んでしまうようになった。ネジ山が摩耗して、弓の張力に耐えられなくなったとおぼしい。
きこきこ、ずるん、きこきこ、ずるん。
その感じさ。
おもしれえだろう、ときこきこ書いているのだが、ずるんとはずす。
この、ずるん、の感覚は、弓でも本でもあまり味わいたくない。
そのとき手に取っていた立ち読み本の著者が、例えば批評家であったとして、さらにたとえばだが、そのおじさんが弁明の機会を与えられたとしたら、私の著作はお笑いではない、まじめな評論をなんと心得るか。そんな輩に読む資格は、ない。とでも言うか。
よろしい、反論しよう。
そもそも前提が誤りなので、およそ評論とか批評とかいう類は、もちろんすべてお笑いである。
笑えるかどうかだけが存在価値だ。
したがって、どんな筆者でも、必ず受けを狙う。
手法はさまざまだ。
隣の家に囲いができたよ、とストレートに振る流派もあれば、もってまわった物言いでまわりくどくいうことで、巧まざるユーモアがかもしだされるんですよ、という芸風もある。
そこで、ずるん、が起きる。
おもしれ奴ももちろんいて、もやもや、という気分、今だ、のときなど、たとえば、江藤淳をむさぼり読みたくなる。おおらかに笑いたい。
そういうとき、あるでしょう。
今日であった奴は、そういう意味で最悪だった。
ずるん、よ。
これは感動詞というのか、オノマトペというのか、感覚だけで、およそ意味というものをなさない表現であることは認めよう。
結局、おもしれかどうか、というのは属人的なもので、人につくものだということだ。
例えば子規はなんだかおもしれえ、何書かせても、では鴎外はどうか。ということだ。
ここで、「面白い」は文字通りで、ほとんど「笑える」と同義であり、知的になんとか、とかそういう劣情は伴わない。
面白いかどうかは人に属する、これが冒頭の自らへの問いに対する回答だ。
我ながら荒っぽいが、自分で納得したので、これでいいのだ。
おもしろくねえ奴は、自分で面白がっているのは勝手だが、わざわざ紙に刷ってまで世に問うのはみっともないからやめなさい、というのが、きっかけを与えてくれた立ち読み本への一宿一飯の義理だ。
ところで立ち読み本の著者の実名はちょっと障りがある、ハスミではありません、念のため。