啓発舎

マジすか? マジすよ

最近おもうこと

自分でつかえる時間ができたので、最近もやもやと形にならない思いがあることについて書く。

こんなことがあった。
学生さんの就職活動はすさまじく、大学2〜3年から、当方が居候する組織にも、毎週のように社会勉強の学生さんがやってくる。インターンとかなんとか。大学が送り込んでくる。これで内定につながるか、というと、そういうことは全くなく、受け入れ側からすると、ほんとに100%ボランティアです。企業も、こういうことを辛抱強くやっている。
一般職の社員が主に面倒をみて、事務の手伝いとかをやってもらうのだが、たまに、当方などにも、終了レポートの評価などの役がまわってくる。
今回3人の男の学生さんが一週間ほどいらっしゃって、最終日にレポート発表ということになった。
横からみている限りは、礼儀正しい普通の学生さんというかんじ。大学は、大東亜帝国。いや日東駒専だったか。
実は、事務方の一般職が、この受け入れ業務にどうも冷ややかなスタンスでいることは、前から少し気になっていた。
若い男の子(たまに女もいるが)、外見は、それなり今風、がやってきて、つぶらな瞳で自分の言う事を聞いてくれる、おいしい仕事ではないか、日ごろの人間関係のバトルと比べると、と、わしなどは思うのだが。
事務方がレポートのファイルをメールで送ってきたので読むと、一読、たいへん出来のよいレポートであったし。
当社の概要、筆者としての評価、体験したことから学んだもの、目的意識、集団でものごとを達成することについてetc、今後の展望・・・。
簡にして要を得た、きちんとした視点のある報告書であったのだよ。いまどきの学生さん、やるな。
3人で共同して書いた、と。

ところが。
最後に、一人ひとりの所感がページ半分ぐらいずつある。
これを読んで、びっくり。

学生A
主述がまるであわない、理解しようと思って、どう、その、意訳してあげればいいかもわからないような、どんどん展開していく文章、おれも他人のこと言えないが、の中で。
どうもチームワークの大事さがわかりました、これから日常でこの経験を活かしていきたいと思います、てな内容だと思うのだが、これを「大学で、友達と遊ぶときに、もっとチームワークを考えて・・・」というフレーズがあったのさ。
「大学で友達と遊ぶ・・・」

学生B
この人は、ゼミ長をなんとしてもゲットしたいらしい。
リーダーシップを証明するため、来年はゼミ長狙いたいです、と。
ゼミ長。説明なし。最初、セミ、蝉かと思った、うそだが。

学生C
・・・略。

と、まあ、そんな感じ。

まず、これで、レポート代筆ばればれであります。
或いは、最近の就職活動業界は、相当進んでいるようだから、インターンシップ終了レポート代行業務なんてのもあるのかもしれない。
そう思って読み返すと、なるほど、当社の社名を他の会社名に置き換えても、総花的な部分は全く違和感ないですね。
まあそれはいい。今の世の中そんなもんだ。


当方の目が釘付けになった、うそだが、のは、「遊ぶ」の一言でした。

「大学で遊ぶ」という文字列をワードだかエクセルだかの画面で認識したのは、おそらく生まれて初めてだ、と思う。御同輩、いかがですか。

いや、もちろん、事実として大学は遊ぶところだ、というのは、いい。OK.おれもそうだった。
そもそも大学まで行きつかず、手前の澁谷でだいたい沈没していた、後半は本郷の日本信販のビルのところのそば屋がだいたい集合場所であったな、などどうでもいいか。

およそ、企業に提出する文書で、書き言葉で、「大学で遊ぶ」と書けるど根性においらは惚れたのさ、うそだが。

この、うそだが、はちょっと鼻につくから、以後やめよう。


「大学ってあそぶところっすよね」ということを世間の、というより、大人の建前社会の共通認識として既に前提としている、まあ、おそらく、そこまでの自覚はないんだろうけれど、暗黙知、というのか、用語間違ってるか、自身では、当然と思っていることが、これで知れる。


大学いらねえだろう、それじゃ。

公共バイト斡旋所があればいいだろう。


ともだちと遊びながら就職テクニックを磨く4年間ですか。


以上は話の枕なのだが、これで、だいたい体力使い果たしたので、以下簡潔に記す。

話変わるが、権太楼はえらい。鈴本で主任やったとき、客船で落語やってフィリピンバンドとあれこれありました、を散々やって、今夜はこれでおわりかと思ったら、妾馬かなんかやりだしたもんな。


世の中の、階層構造。
金、ではない。

女の人って、むきだしじゃないですか。
はしたない、だの死語ですから。

で、サイゼリアあたりで飯食ってると、その女のしょってるものが、3分で全部わかるよね。たとえば。

今回の学生さんもそういうこと。


みんな言ってることだが、おれも最近つくづくそうだとおもうことだが、人を社会の成員として育て上げるシステムが壊滅、したかどうかはなんだが、ゆるくなっていることは、まちがいない。
教育など、これは昔から、全く機能していない。

自分と、自分をとりまく比較的親密な環境、家族、これもだいぶ崩壊しているようだが、あるいは、学校、ですか、そういうもので、いままで以上に、階層、ということばは乱暴だが、カテゴリーがはっきりしはじめている、という体感です。

不可逆なかんじ。

学生さんとか女のむき出し感にそのあたりが明らかになってきている、というような。

格差社会、という言葉が一時期、いまもか、流行ったが、これは、煎じつめれば金の問題ですよね。

もちろん、社会にあっては世の中でやっていく文法のようなもの、自分に対しては自分で自分を豊かにするスキルのようなもの、こういうものが、ある、ない、で決定的にわかれてしまっているようなかんじ、しませんか、特に若い衆に。

あるある、あるない、ないある、ないない の4類型があるとする、全く今の思いつきだが。

A:対社会
B:対自身

類型1 A○B○
類型2 A○B×
類型3 A×B○
類型4 A×B×


類型2はおいらの組織にごまんといる。佃煮状態。
類型3は身過ぎ世過ぎ以外でおいらが接する奴はたいていこれだ。
類型4は、サイゼリアでよくいます、だいたい二人組で。

冒頭のエピソードの学生さんが「4」かは、もちろんわからない。
A:はこれからいくらでも磨けるし、Bも「遊ぶ」ことで豊かになってるのかもしれない。

AとBの大事さは、人によるだろうkど、当方は、比べ物にならない。
年々歳々もう、Bだけです。Aは、煎じつめれば金だから。

類型4でほっておかれているカテゴリー、これが、冒頭のもやもやで観じていたこと、なんですかね。
他人事のようだが。


世界的な傾向ですか。