啓発舎

マジすか? マジすよ

お能についてひさしぶりに 

◆たまに、ひとの書いた文章で、度肝を抜かれることが、まれにある。きのう、それが、あった。
 おれか、と思った、書いたのが。
◆出典はクラシック音楽情報誌。きのう銀座のヤマハでただでもらったやつ。そのコラム。
◆能の時間の動きについて。
◆京都で毎週のようにお能に通っていたころ、得体のしれない、この世ならぬ時空をとらえているに違いないのだが、それがどういうことなのか、自分の体感していることにことばを与えられなくて、ずいぶんいろいろな文献にあたった時期があった。帰りに四条のジュンク堂で足を棒にして立ち読みしまくった。
◆高いんだよ、お能の本は。それでも、観世寿夫さんとか白洲正子さんの本とかは、当方の書架に、しかも一軍の位置に並んでいる。白洲さんについては、当方、どうも、ちょっと引いて接するところがあるのだが、お能についての論考は、どれも留保なしに、うけとれる。
◆だが、お能の本質、と、勝手に当方が感じる、「時空」についての、ほんとに切実な言及というものにお目にかかったことがない。
世阿弥も、言ってない。そもそも、世阿弥の時代のお能は、いま、わしらが観る形式だったか。特に音楽との関係。かなり違うんではないか。もっと写実的、というか、芝居の要素が大きかったのではないか。
 とりあえずそれは、措く。
◆時空についてだ。
 で、こんな変なことを二六時中ああでもないこうでもない、と考えているのは、おいらだけか、と思っていたら。
 というか、能のことなど、ここ、どうだろう1年ばかり、すっとんでいたようなのだが。
◆能は「時」だ。それを司っているのは役者より音楽家のほうだ、と。
 舞台には「時」がものすごい濃密さで流れていて、最初静かに座っている音楽家や役者は、その流れの中に沈んでいるように見える。
 それが、この世のものとは思えない歩み方で歩きだし、笛が空間を切り裂き、そして・・・という文章の展開。
◆お囃子を「音楽家」と呼称するなど、明らかにお能に通暁している方ではない、とお見受けするが、であればこそ、自分の言葉で、予断をいれずに、お能は時間、と空間だ、と喝破し、しかも、音楽にその本質がある、と言い切る。
◆クラシック畑の、しかもピアニストの方のようだが、もちろん、平素から、音と時空について観ずるところがあるからこそ、この発言がある。
◆その、平素のあれこれ、に満腔からの親和感を覚える。
◆ついでに言うが、お囃子だけでは、だめだ。
 「せぬひま」という気鋭の若手のグループの会でこれぞ囃子方の真髄という公演を聴いたことがあるが、精妙な音楽ではあったが、「時空」は現出しなかった。やはり、空間が必要なのだ。空間があるということは、そこにものがあること、そのものがることによって、空間が顕わになる。で、その、もの、というのが能役者の存在。舞は、どうでもいい、とはいわないが、いささか乱暴に言ってしまうと、本質的では、ない。そこに装束を着けた存在としてあることが大事。
◆能の凄いところは、それを、形式として実現している、ということだ。
 舞台があり、お囃子があり、橋がかりを役者が歩むという構図があり、という形式そのものに、時空を表現する要素が詰まっている、ということだ。

いつだったか、ちょうど、いまのような梅雨でうっとおしい季節だったと思うが、若手の研鑚会かなにかで京都の観世会館に終日座っていたとき、何番目かの演目で能管がびやーっとやってこれから始まるというときに、このまま無限にこの時空を観じる、その端緒をつかまえたような、根源的な安堵のような、それが無限に続くような、そういう時空にいた、ときがあった。

この方のエッセイを読んで、そんなことこんなことが一気にフラッシュバックしたのであった。