きのうBSで神尾真由子氏のドキュメンタリーを見て、久しぶりに音楽について考え続けている。
自分で考え自分で表現する。事象を、他についてはもとより、自らについてもほとんど潔癖なまでに相対化する。権威を信じない。
のめりこまない。つきはなす。
音色や表現の美しさでは、ヴァイオリンはチェロにはかなわない。ヴァイオリンの音は美しいだけではない。金属的な、不快直前の音も出せる。生々しい、感情そのものを表現できる、と。
全く同感。
当方、実はヴァイオリンという楽器は、あまり好きではない。ピアノよりはましだが。
ヴァイオリンが苦手なのはの高音部だ。高音の早いパッセージをソリストがむきになって弾き出すと、御苦労さん、という気分になる。
空気のふるえを感得することのよろこび。
いま思いついたことを言葉にしたのだが、音楽に接するということは、例えば上のようなことだ。
お能が始まるとき、能管の響きが虚空に消える。
宇治川のほとりで、やおら、せせらぎの音が辺りを領する。
竹薮のそよぎ。
老人の会話。
猫の、かすかななきごえ
チェロの重音。
水鳥のぎえーという声
音楽は自然を模倣する。
音が、例えば必須アミノ酸のように、生体を維持するのになくてはならないのは、五感で時空に触れるということが生きることとほとんど同義であるということによるのではないか。
など、今回は、素材をむきだしに放り出した。