啓発舎

マジすか? マジすよ

いやあ、寒い。心も寒くならないようように。
◆たったいま、テレビだが、佐藤しのぶさんのインタビュー番組に有馬稲子さんがでていて、これからは年をとる、ということが誰にとっても一大事業だ、と、きっぱりとおっしゃっていた。おお、と思いました。美しい、はぎれのよい日本語の発音を久しぶりに聞きました。
◆年をとるのは一大事業だ。
◆長年兄事している、北陸の方にひっこんで久しい知り合いの方からメールがとどいた。
 当方が、コンサートのチケットのご案内をしたことへの返信として。あいにく東京に出る用事がなく、という内容。
 それは想定ずみ、最近ご挨拶もしておらず、この機会をつかって近況報告をしたまで。
 で、当方の送信から半日を経ずして返信いただいたのだが、たいそう長いものだった。
 さる国立大学の講師を引き受けたこと、理科系離れの現状について(この方は文科系、当方の大学、学部。サークルの先輩)、当方が御畳奉行を好んでいたこと、ブラームス4番のヴィオラの難しさ(この方の本職はフレンチホルン)、フルトヴェングラートリスタンとイゾルデがいかに素晴らしいか、など、相変わらず、守備範囲の広い内容。
 畳奉行については、ずいぶん以前、中公新書で「元禄御畳奉行の日記」というような題名の新刊がでて、一読、感嘆して、傑作と、そこら中にふれまわっていた記憶が確かにあり、そのことを指していらっしゃるんだと思う。
 元禄の天下泰平の時代の役人生活のドキュメンタリーのようなものだが、そのお気楽さの混じり気のなさが、当時の当方のどこかに触れたのだと思う。
 すっかり忘れていたそんなことを懐かしく思い出した。
 当時そういうことがあったね、ということより、その後の時間を共有しているんだね、というそういう気持ち、懐かしさ。
 年をとる、ということは、年をとる、ということの意味は、どうもそういうあたりにあるんじゃないだろうか。

 そういうことだけでも、この先やっていく栄養になるのではないだろうか。
 
なんだか、このところ、感傷、というか老いの繰り言、というか、単に弱気になっているだけ、というか、まあ、トホホの安らぎ感のようなものが、当方の通奏低音になっているようだ。
 感傷、は嫌いなはずじゃなかったか。