本の話。
村上春樹の「雑文集」。
きのう、酔った勢いで恵比寿の八重洲ブックセンターで買った。
なんで酔った勢いかというと、この人の本は、ほとんど立ち読みで、ほとんど買ったことがなかったから。
一冊だけ、和田誠さんと組んだジャズの解説の文庫が現役の書棚にある。これはたまに読み返す。
小説は、どうしてもだめだ。何故だかわからない。
これを買ったのには、いま思うと、といってもきのうのことだが、伏線らしきものはあるようだ。
こないだでたインタヴューの本。これを目黒の有隣堂で立ち読みしまくって、ほとんど買おうかとまで思いつめたという経緯があった。
これが面白かった。
自分に対して冷静。引いて、みる。インタヴューなのに、言わないでいることが妙に気になる。
作家を論じたところで、三島にネガティヴなのは予想どおりだが、安岡章太郎が贔屓らしいのには膝をうって皿が割れるかと思った。
で、今回買ったのは、罪滅ぼしの、贖罪の意味もあったのかもしれない。
ないな。
感想は、インタヴューの立ち読み読後感とおなじ。
言わないでいることが気になる。
一編だけ、自らに課した韜晦のおきてを破って、説明尽くそうとした、と感じられる「雑文」がある。
「東京の地下のブラック・マジック」
アメリカの雑誌に依頼されて書いた、といういきさつに、その答えが、おそらく、ある。文化も風土も違う異国の人々にオウムを理解させるためには、そして、そのうえで自らの考えを定着させるのは至難だ。噛んで含めるような説明、解説がどうしても必要だ。そこで、ついつい、語ってしまった、というところか。
没になった、というのはわかる。この内容を理解するのは、アメリカの人には、優れた編集者であっても、おそらく無理だ。
この一編を読むだけでも、この本は買う価値がある。
村上春樹を解く鍵がいくつか詰まっているようだ。
特に、P204以降の畳みかけるところ。
オウム信者の「形而上的思考の視覚的虚構化、あるいはその逆」を好む傾向。
フィクションと現実を峻別する免疫がとぼしい。
オウムの提示した世界観には、なんらか「貴重な真実」はあった。
だが、それは現実ではなく、「フィクション」である。「実証の枠外にあるもの」である。
優れたフィクションは、小説は、魂を救うが、いずれは現実に戻ってこなければいけない。
だが、信者は、片道切符をもって「システムとしての虚構」に呑みこまれてしまった。
なるべく当方の言葉で、理解した文脈で要約してみた、無体財産権も気になるし。
オウムを語って、これほど簡潔に言いつくした文章を他に知らない。
同時に、氏が携わる小説の世界、その「魂を救う力」についてこれほど率直に吐露した文章を他に知らない(単に村上氏のあまりよい読者ではない、というだけのkとかもしれないが)。
また、この国全体の時代精神(95年当時のことであるが、いまも底流している、)を語りその推移について警鐘を鳴らす時代認識。
すべて異論なし。
ただ、なお、フィクションでない真実、「現実であり真実あること」を希求することは、書生論だろうか。
フィクションと現実を峻別することは、イエス。
フィクション=現実でないこと、と定義すればそれは自明。
ただ、ここで「真実」という、別のディメンションの概念をおくと、どうか。
人が生きるということは、人間は抽象的な思考をするから、自らの裡にその世界=フィクションをおき、現実とフィクションをいったりきたりする。
ただし、その両者をカバーする領域で、真実とそうでないもの、ということがある。
真実であり、かつ現実であること。
それが、そのしっぽをつかむことが、目下の当方の、うっすらと先に見える里程標であるようなのだが。