啓発舎

マジすか? マジすよ

酔っ払ってるんでモーツアルトのことを書こうと思う。
素面では、なかなか。
11月30日の日曜日、川崎まで魔笛を聞きに行った。
当方のいた学生オーケストラのOBOGがやってるアマチュアのオーケストラ。
これが滅法良かった。ひろいもの。
それがきっかけ。

実はモーツアルトにはひどい目にあったことがある。もうふた昔もまえのことだが。
七転八倒していた、誰でもあることだが。それが結構続いていた、誰でもあることだが。
なんにでもすがっていた、宗教以外なら。誰でもあることだが。
で、モーツアルト
これが、最悪の効果をもたらした、当方に。
どん底のときにモーツアルトを聞いてはいけない、というのが、体であじわった教訓。

この人についてなんだかんだ言うのは気が進まない。
手垢つきすぎている。
別に小林秀雄に文句いうわけでもないが、ステロタイプ化してないか。

とくに、弱っているときに勇気がわいてきた、とか言う手合い。

逆だろう、音楽わかってんのか。

バッハはどんなときでもお友達。あと、ブラームス、晩年のピアノ小曲。
でも、モーツアルトは。

とことん元気なときに聞く音楽。弱い心は打ちのめす。
それは、おそらく、今言うが、感情とか、人間的なものとは無縁の音楽だからだ。実は。

普遍、ということだからだ。

今回、少し気が重かった、実は。

それは、当方が、結構しんどかったからだ、いろいろで。
海面下3000メートルぐらいだったからだ。
これが5000メートルになったらどうしよう、と。
深海探査船ではない、私は。鰻の産卵などみたくない。

ところが、演奏会が終わったら、深度30メートルぐらには浮上していた。海面が頭上にキラキラしていた。

何故だ。
当方の経験則に反する。

年か。

序曲で、緩んだ、まず。

なんだろう、愉悦、諦念、そういうものを超越している、ということだろうか。

優しいとか慰藉とかいうこととも違う。

普遍、に接するということだろうか。

でも、それは、平常時でも、結構きついことではないか、普遍とか、究極とか、と向き合うのは。

京都で、視覚的には、数回経験したことでは、あるが。
きつかった。

本質的なものとお友達になったということか、親和力ができた、ということか。

あまり、性急にこたえを求めてはいけない。

単に、気分は曇りだが、体調は良かったというだけのことかもしれない。

それやこれや、このところ、とことん情緒不安定、情動失禁、な時間が多い。
スリリングだ。

加藤周一さんも亡くなった。哀悼の意を表したい。

日本文化における時間と空間、の続編は、こうなると、私に託されたミッションか。
な、わけないか。

いずれにしろ、
美、から普遍に至る道。
これぞ男の生きる道。