昨日、寝しなに書棚から、まったく何気なく草枕をとりだしたら、途中でやめられなくなって、読了してしまった。
こんな本だったのか。
年はとるものだ。最近、なにかというとこのセリフだが。
◆がらにもなく、十七文字の道に踏み込もうとしているのだが、その当方のもやもやした気分を、以下で言い切ってくれている。以下、遠慮なく抜粋。
こんな時にどうすれば詩的な立脚地に帰れるかと云えば、おのれの感じ、其物を、おのが前に据え付けて、其の感じから一歩退いて有体に落ち付いて、他人らしく之を検査する余地さえ作ればいいのである。詩人とは自分の死骸を、自分で解剖して、其病状を天下に発表する義務を有している。其方便はいろいろあるが一番手近なのは何でも蚊でも手当たり次第十七文字にまとめてみるのが一番いい。十七文字は詩形としても尤も軽便であるから、顔を洗う時にも、厠に上がった時にも、電車に乗ったときにも、容易にできる。十七文字が容易にできるという意味は安直に詩人になれるという意味であって、詩人になるというのは一種の悟りであるから軽便だといって侮蔑する必要はない。軽便であればある程功徳になるから反って尊重すべきものと思う。
抜粋終わり。
ほんとは、いま抜き出した以前の部分、以後のくだり、もそれぞれ捨てがたいのだが、めんどくさいから、急所のところだけ書き写した。
論評しない。
◆蕭白の山姥、若冲の鶏の図がでてきたのに、びっくり。
山姥は有名だが、鶏は、例の細密なやつじゃなくて、当方プライスコレクションでみた、卵に手足のような、隅一色一筆書きのような、やつだろう。
蕭白、若冲は、最近再評価、だったのではなかったか。
◆不遜のそしりを畏れずにいえば、それでも、漱石若いぞ、青いぞ、と思うところもある。
◆最初読んだときは、美文調に気取りを感じ、ちょっと、と思ったのだったが、今回はそうでもない。わざとやっているのだし、この美文は、内容に比べあまり本質的なものではない。
◆後半、全く別の話になるが、これはいらない。前半だけでうまく終わるとよかった。この人の作品にでてくる女は、どうも。ミステリアスな存在に仕立て上げる癖がなくはないか。実物感がない。三四郎にせよ、それから、にせよ。観念の世界で祭壇に祭り上げているような。
◆能の言及がまた。おもしろい。
高砂で、箒を担いだ爺さんが婆さんと向き合う、これはうつくしい活人画だ、と。
こないだ当方も京都の観世会館でこの演目を見た。たしかに箒を担いだ爺さんがでてきたが、婆さんと向きあうシーンは記憶にない。だが、能を観るよろこび、というのは、まさに、それ、ある一瞬、何気ないその刹那に、美、としかいいようのない時空げ現出するところ。
漱石三十九歳の作品。
凄いなあ。
励まされました。
当方も、別乾坤を建立すべく、などと見得を切るのは億劫だが、老骨に鞭打って、そろりそろりとまいろう。