啓発舎

マジすか? マジすよ

津田沼にて

28日
大徳寺月釜。
ずいほういんと大慈院。
瓢樹で昼。
 個室に案内される。向かいに品のよい坪庭がある。ここでかれこれ2時間近く、たいへん質の高い時間を過ごさせていただいた。
 蹲にしたたる水。かすかにゆらぐ簾。たまに小鳥が舞い降りてそこらをついばんで歩く他は静寂が支配する。
 時を、観る。
 
 京都駅からのぞみで東京へ。会合に出席。深夜東京宅に。

29日
 午後神保町、荻窪、下北沢。渋谷経由で東京宅にもどる。
30日
 津田沼へ。
 

 このところ、ここ半年ぐらいか、繰り返し表出するある知覚があって、その五感の直接経験をなんらかの形式で自分の外に定着させるということを、そろそろ展望してもいいのではないか、ということをたまに思うことがあった。

 自分の外に定着させる、ということを、なんらかの表現行為という言葉に置き換えるとわかりやすくはあるが、そもそも、なにかを他に訴えるとか世に問うなどという気持ちは、さらに無いし、このブログでも、自分の中の、ある閾値を超えるような内容については、注意深く記述を避けていたつもりだ。自分のブログをあとから読むと、我ながら「寸止め」のもどかしさを感じる。ここから先がホントのところなのに、という。

 前提として、たとえば文字に定着するような種類のことか、あるいは、機は十分に熟しているか、ということも一応吟味しておいたほうがいい。

 禅についてあれだけ数多の書籍がありながら、当方の浅学菲才を棚に上げていえば、そのほとんどの読後の感想は、不立文字という戒めは正しい、という一言に尽きるし。

 韻文では、どうか。 
 ずいぶん前から、以上の思いとは別に、十七文字とか、三十一文字の世界は気になっていて、ただ、この世界は当方をやんわりと拒絶しているという直感もあって、踏み込むのにためらっていた。
 ただ、いま当方に、自分の外に放り投げるに値するものがあるとすると、それは、意味とか解釈という頭の中の遊戯ではなく、五感の直接経験そのもの、あるいはそれ、すれすれの、要は理屈ではなく、その種の表出にいちばん近くまで寄りそえるのは、この形式をおいてほかにない。

 いずれにしても、間違いなく発語訓練は必要だ。

 あまり間口を広げすぎてもいけないが、そのへん、少しまじめに考えてみよう。