先週はなにかといろいろあって、昨日の土曜日は、終日ほとんど横になっていた。雨でも降ってくれればいいのだが、じめっとした曇り空、時折いい風を感じることもあったのだが、この季節は、どうしようもない。
今日は朝から薄日がさし、昨日よりはしのぎやすいようだ。体も少しは持ち直したか。
今日は、なにもしない。
◆NHKの趣味悠々で表千家のシリーズが始まった。「京に楽しむ夏の茶」ということで、朝茶をとりあげるようだ。久田宗匠、熊倉功夫氏、作家の山本一力氏、というメンバー。おじさん3人。初回を見た限りは、さらっとしていいかんじ。本題と関係ないが、山本氏は、落ち着いたいい声をしてますね。
当方も、他に用事もなく、7月の月釜には大徳寺にでも行こうか、という気持ちもあるのだが、夏の京都を経験すると、二の足を踏むところもある。
◆かすかにまだ縁のある東京のアマチュアオーケストラが、今度ブラ2をやるからどうだ、と言ってきた。来年の2月。
サブは出ないでいいから、というう寛大なお誘い。のることにした。
チェロ弾きにとってブラームスの2番の交響曲は、懐かしい友人のようなもの。
で、ほんとに久しぶりにチェロをケースから引っ張り出し、少し遊んだところ。
◆alce neroのトマトソースでパスタ。ビール。クロワッサン。コーヒー。いつもどおりのおいしさ。いつもどおり、ということの有難さ。
◆日曜美術館で安宅英一氏をとりあげていた。当方の贔屓の秋草文4点は、個別には紹介されていなかったが、最後のタイトルバックの背景として4点並んで映っていた。よしよし。
◆毎週木曜日にのぞく古本屋で、値段につられて期待せず買った「宗教と霊性」(角川選書)を飛ばし読む。
あけてびっくり、中○新一との長い対談が本の内容の半分ぐらいを占める。なかみがあればいいのだが、二人してその種の体験の言い合い。青臭いだけ。
二人とも、初出当時で、現在の当方と同じくらいの年配。四十代後半でその幼さでいいのか。
ニューエイジ関係には、こどもキャラの人が多く、話していて時に思わぬ知見に出会えることもあるので決して幼児性自体は否定しないのだが、それにしても、こう歯止めがないと。
こういう人たちが跋扈していたんですね、いまから10年前は。
中○さんは、いまでもやってるか。芸域も広げて。
10年前の本にあれこれ言ってもしょうがないが。
◆それで思いついたのだが、白隠さんという人は、どういう人だったんだろうか。いきなりだが。
このところ、思文閣から毎月立派な墨蹟のカタログを送ってくる。
たいてい白隠の軸がひとつふたつのっていて、説明文というのか、カタログだから惹句というのかで、禅の境地とか到達点だの絶賛している。ついている値段も他の掲載作品と比べても結構お高いようだ。
当方、これに少し違和感がある。
白隠さんについては世間並みの知識しかない。夜船閑話も現代語訳を飛ばし読みした程度。
ただ、この方の墨蹟については、実際に見て非常な印象をもったことがある。
閑なのでその話をしよう。
京都市美術館にプライスコレクションを見に行ったときのことだ。
若冲だの琳派だの、どちらかというと、世飾的、お金持ち、絢爛、享楽的という世俗的な作品がコレクションの太宗を占める。
当方、その遊び心にうきうきしながら一作一作丹念にみてまわった。
そのなかでも、鈴木其一とか酒井抱一とかの江戸琳派の作品が並んでいるなかに、それは、あった。
大ぶりの、例の、白隠がよく書く達磨さんが目をむいている軸。
それが、よりによって、ひきめ鉤鼻の六歌仙の絵とか、踊っている人たちを図案化したような絵(鈴木其一 あでやか 最高!)と並んでかけてあった。
そりゃ、誰でも違和感は感じるだろう。
享楽的で華やかな絵の中に、禅の境地、達磨さんのぶっきらぼうな軸。
まさに聖と俗。
禅の「聖」に対するに琳派の「俗」。
ところが、これを一瞥したとき当方が咄嗟に感じたのは、逆だった。
なんとも俗な絵だな、というのが、白隠作品の第一印象だった。
光琳にしても抱一にしても、軸だの屏風だのを描くときに、見るものを善導しようとか、ましてや悟りに導こうとかいう意図など微塵もなかったろう。
それどころか、これで幾らになる、とか、祗園で遊べるとかいう思いが製作の原動力になっていたかもしれない(現に、光琳は、遊蕩が過ぎて財産をを蕩尽して、しかたなく画業をはじめたということらしい)。
ただ、とにかく綺麗な絵をかこう、粋な意匠で発注者をあっと言わせてやろう、という思いは、当方に伝わり、なにか、切ないような気分にすらなる。
美しくて悲しくなる。
混じり気がない。
この想いについては、長くなるのでまた稿を改める。
そういう思いで例の、鶴が沢山いる屏風(其一作 光琳の作品と同じ構図)だの白鷺が凍りついたような絵だのを見て、その流れで白隠の軸に行き当たったのだった。
はったり、とか、作意とか、あざとさとか、そういう濁った感覚が当方を襲った、いきなり。
それは、ある意味で新鮮な感覚だった。
臨在禅の巨峰であるという世評を素直に受け取っていた白隠和尚の墨蹟から、とっさにそういうどす黒いものを感じたことに、自分でもびっくりした。
聖俗の対比でいえば、琳派こそ「聖」で白隠は「俗」しかも、語るに落ちるレベルの俗ではないか。
そんなことをくどくど考えながら白川沿いをとぼとぼ歩いて帰った。
以上はあくまで、白隠の数多ある軸のひとつを見てとっさに感じたことで、もとより白隠禅師その人についてどうこう言おうというわけでは、もとより、ない。
また、その作品から作者の人物像をあれこれを類推することには、当方基本的に反対。
あくまで、一作品の印象。
日曜の午後、あまり芳しくないニューエイジ本を読んでいて、そういえば、と頭に浮かんだことを書き留めただけ。
これも読書の効用か。