午前中に、掃除買い物メールその他の雑事を片付け、薄茶とお菓子で一休み。
石牟礼道子さんと遊ぶ。久しぶりだ。
今日はエッセイ集。
どれでもいいのだが、例えば、「とある前世の秋のいま」という題の作品を。
作者の仕事机の脇に、白と紅の小菊がある。去年の暮れに買ったものだ、という出だし。
以下、少しだけ引用。
「・・・というのも、この小さな白い菊を見て、買おうかなと思った瞬間胸が疼いた。<中略> 昔々、とある前世の秋のいま、わたしは、処刑された恋人の首を自分の片袖に包んでいて、晒し台から下ろしつつある。そういう感じにふとなったのである。」
で、例によって、自由にあの世とこの世を行き来し、情念の流れを綴る。
本当は全文を引用したいぐらいだが、もう少しだけ。
「草の匂いや風の動きが人の魂を救うのは、悲哀も極まれば、無心というところへゆくからで、その時はじめて草や樹や風と同じものになれるのだ、というようなことを考えながら、白い小さな蕾を包んでもらっていた。遠い境界から後戻りしてきたもののように、わたしは花を受けとった。
この世の巷は賑わっていたけれども、それはそれで、やっぱりここももう、わたしの目にふれたから、冥界の徴しをうすく捺された入り口、のように見えたのである。」
すごいなあ。
この人の書いたものには必ず圧倒される。だから、持ち重りのする情念を引き受けるのは、ちょうど、今日のように、身の回りのことを片付けて、気持ちが平らになるという準備が必要だ。
この、自由に冥界とこの世を行き来する感性は、当方には、絶対に、ない。
即物的、単純にできているんですね。
畏れつつ見守るというのがこの人に接するときのスタンスだが、ひとつだけ、この人が「時間」について言及するとき、たまに、当方の琴線が震えることがある。
ただし、その震えを語るためには、当方の乏しい「時間体験」に言及しなければならず、それはこの稿の目的とするところではない。
この人は触媒のようなところがあり、その文章に触発されたイメージをたどっていくと、こちらも思わぬ深みにはいりこんでいく