啓発舎

マジすか? マジすよ

お茶の世界の聖と俗

先日、紫野のある塔頭のお茶会で薄茶をいただいて、時空が凍りつくような空間の美しさを体感した。
 障子越しの光が部屋の隅に陰影を作る、その柔らかな感触。
 開け放った窓越しの緑の清冽さ。
  
 余韻はまだ残っています。
 お茶の世界の、美を様式化し固定する技術は凄いです。

 ここまでは、いい。
 以下、話は、やおら、トホホの色を帯びる。

 お茶会のあと、社中の名流夫人のおばさま方数名とホテルでランチ、という仕儀になったのですが、そこで、美の一瞬には対価を払わなくてはいけない、ということをいやというほど思い知りました。
 話題は、さきほどの席のことに終始しましたが、せいぜい1時間ぐらいのお茶の席について、よってたかって1年分ぐらいのあら探しをやってのけたのには感服しました。
 お茶室で美しさに感動し、ここでまた。今日はよく心動かされる日だ。感動の質はお茶室とここでは正反対ですが。
 どうも、お客としてきた方の中に大先生が複数いたらしく(いずれも正客ではない)、そのひとたちの態度及び亭主とのやりとりにいろいろ突込みどころがあったようです。

 わしにはわからんよ。 

 レストランの接客にもひと悶着ありました。
 コーヒーの出し方が悪い、と、お社中ご御婦人Aに延々叱られた女性の従業員の方、助け舟だせなくてごめんなさい。

 やっとご夫人方から解放されて、見回したあたりの緑のおおらかな明るさは、沁みたね。

 そもそも、お茶に志したミドモの初心は、隠棲したとき、すこしでも閑雅に過ごすため行住坐臥の参考にする、という軽い気持ち。
 美を様式化する技術を知りたいという気持ちも少しあったか。

 だから、交際とか、お道具がどうしたこうした、とかなんて、とことんどうでもいいのよ。

 ところが、実際にお稽古に通うと、この、煩瑣な交際、約束事の類にエネルギーのほとんどを吸い取られる。 

 また、この世界、地雷原を歩くようなところがあって、いつ、誰の逆鱗に触れるかわからない。聞くと、ミドモのお教室にも、ずいぶん地雷が埋まっているようだし。先生の武勇伝も聞きました。おっかないぞ。

 つかず離れずというのも難しいしなあ。

 大方の入門者が感ずるところだと思うが、この世界は、美の極みを現出する聖なる一瞬と、辟易するような俗が背中合わせになっていて、おまけに、ほとんどが、その俗の世界のあれこれで、疲れることが多いんです。

 さっき、遊びで、自分で点てていただいてみたが、茶は、自分で点てて自分で飲むのが一番なようだ。
 早いとこ草庵を結んで、小間でひとり閑雅にお茶を嗜む、という世界に没入したいものだ。