啓発舎

マジすか? マジすよ

7日の水曜日、ヨドバシ梅田でウォークマンを買った。

音楽を聴くためではない。通勤時、駅および電車内で拡声装置から間断なく垂れ流される雑音から身を護る策としてだ。音楽よりも、ノイズキャンセラー機能が目当て。
早速帰りの電車で装着したのだが、劇的な効果があった。もっと早く買えばよかった。そもそもこの国の「音」に対する鈍感さは・・・と、話を展開させるいきかたもあるが、それは今回の本題ではない。そっち方面は中島義道さんに任せた。

今回は、当方の、音そのものに対する感じ方の変化について。
思いつきで、予めおとしどころも決めてなく、どう展開するかわからない。さわりだけで終わるかもしれない。  
 
 駅を出すと用がないのでイヤホンをはずすのだが、とたんに、竹薮のそよぐ音とか、鳥のさえずり、などが、新鮮な音として、耳に飛び込んできた。美しい音楽だな、と思った。

 通常「音楽」といわれている、人に美感を催させることを目的として人為的に作成される音列を音楽として認識せず、人の手の加わらない環境の音を、「音楽」として聞いてしまうという逆説。

 ここでいう「音楽」という語は、人に生理的な感興を催させる音というほどの意味だが。

それでしみじみ感じたのだが、このところ、ひとが作ったものよりも、人の手の加わらない音に体のレベルでの心地良さを感じることが多くなってきた。

年のせいか。

このところ、五感で感受するもろもろについて生理レベルで変わってきているという自覚があって、それをなにかと年のせいにする傾向が自分自身にみられるが、すぐ年のせいにするのも、当方が年をとったせいか。

なんだか、体にしみる事象がかわってきた。

今回は、その、五感のなかの聴覚に関する変化について書く、という成り行きなのだろう。

たとえばこんなことだ。

神護寺でビールを飲んでいると、隣りで年配の男性二人が天気のこととか他愛ないことをあれこれ話している。そのゆったりした抑揚、微妙な旋律。

 ・雪舟寺での木々のそよぎ。

伏見稲荷売店のおばちゃんとお客との会話。微かな音程の上げ下げ。声のかすれ。これも、書いた。

ここで、人の声について、注記したい、会話は人為そのもじゃねえか、という突っ込みに対して
会話は人の声そのものだが、歌ではない。
即ち、音に手を加えて生理的な感動を与えることを目的としてはふつう人は話さない。
人の行為そのものだが、音そのもので人に働きかけようというものではないことから、鳥のさえずりと同列、音ではあるが通常音楽とは思われない。
 その、通常はもっぱら意味の伝達の手段として行われる会話から、意味を殺ぎ落とし、音楽として聞く。聞えてしまう、ということです。
 ほんとうに美しいと感じることがあるんですよ、声そのものよりも、会話という音の連なりに。静かなうねりで時が過ぎていく、という感じが。

 ・宇治川のせせらぎ。
 これは少し説明が要る。
 2年前の桜の季節、平等院にいったついでに宇治川に立ち寄った。思わぬ拾い物だった。河畔に座ってながめていると、河のせせらぎの音が、突然耳に飛び込んできた。それまでは、聞えてなかったんですね、観ることで精一杯で。
 そのときの、せせらぎの、すがしさ。

 それやこれや。

 なんだろう。
 いずれも例の(過去のブログご参照)「不意打ち」に属する体験、はっとするのだが持続性は、ない。

 造化の妙とか、自然との感応、とか、乏しい聞きかじりを寄せ集めて説明してみる、ということもやれなくもないだろうが、今は、そういうことがある、という事実だけを認識して、余計な理屈をこねずに放っておきたい。

今回は、頭だし。

 
 身近なことだけでしみじみできるのならこんな安上がりはない、ということだけはは確かだ。