啓発舎

マジすか? マジすよ

この週末は完全にオフ。掃除洗濯買い物料理以外なにもやらなかった。

日曜の午後になり、さすがに散歩でもと思い立ち、近所の公園へ。
春の陽気。小ぶりの梅園は紅梅白梅がまっさかり。
去年は隋心院に「はねず踊り」を見に行ったな。1年たつな。

このニ三日少し身辺にざわつくことがあり、内心は必ずしも今日の天気のように晴朗とは言い難いのだが、休みも2日目にもなると、気持ちの波も少しはおさまったか。

特に外的刺激もなく、感情のゆらぎをただながめていると、それはそれ、動物レベルでの心地よさがある。
その感情が、楽しいとか悲しいとかに関らず、想念が自然に流れるのであれば。

気持ちがしんとしてくると、樹木のそよぎが、沁み、大きな樹の枝ぶりの、無理ない線が美しいと思えてくる。

この国の美の伝統とがっぷり四つに組もうなどと本気で思っている自分が少し滑稽になってくる。

すこし抜きましょう。

古来この国の隠者は、事物のゆらぎや自身の想念の移ろい、或いは時間がたっていくことそのものを、なんというか観照して日々暮らしたのだろう、ほとんど甘美な世界だ。ぜんぜんストイックじゃない。
隠者淫して日々を送る、などという言葉が浮かぶ。

帰って、本を開く。中野重治
作品はなんでもいい、この人の文章をたどる楽しみ。
手元にあったのが「本とつきあう法」
本について書いたものを筑摩書房がとりまとめた、この筆者の作品のなかでは、肩のこらない部類に属するものだと思う。
どれでもいいが、いきあたりばったり「万葉集のこのへんのところ」というエッセイを読む。
例によって、もってまわった言い方で始まる。
以下、冒頭から少しだけ抜粋。

「 このへんのところが私は好きだ。といって、何かがわかっていて好きというのではない。ほかと比べて、これこれの理由で好きだというのではないのだから、わけを問いつめられては困ってしまう。
 ただ、こういうことはあった。今でもある。
 むかしはじめて万葉集を教わった時〜 」

 で、筆者の愛する歌を何首か挙げていくのだが、控えめに感動を伝える文章が、なんとも心地良い。
 
しん、とする抒情。潔癖さ。

この人の文章は、何を読んでも、或る時期の、やたらにカタカナと長々しい熟語が連なるパンフレットのような文章を読んでも、それがある。

だから、この人の本は、当方の気分を選ぶ。
当方が本を選ぶのでなく、作者が当方を選ぶ。
今日は、久しぶりに、中野さんが私をご招待してくれたようだ。