美しいものにふれたとき、誰かと共有したい、語り合いたいと思う。そういう時、脳裡にうかぶ何人かの大事な人がいる。長年兄事する、そういう数少ない私の知己の一人の方から、割合長文のメールが届いた。
雅楽界の重鎮にして随筆の名手のその方が、最近専門誌に書かれた作品を添付していただいた。
「かそけき音の魅力」というタイトルのその随筆は、当方の琴線に触れました。
以下要約。
雅楽では、曲の冒頭、楽筝が「返し爪」でかそけき音を奏でるものがある。聴衆を前提とせず、自分か、奏者に聞えればいい、という音。
ある演奏会で、和琴が「つむ摘て手」や「おるて折手」でかそけき音を鳴らすこととなった。これをマイクで増幅する、というディレクターの主張を退け、そのまま演奏することになった。
1600名の聴衆がしわぶきひとつせず聞き入ったため、本番では、2階席にいた筆者にもその音がはっきりきこえた、という話。
・・・たとえば茶道の釜がたぎる音、柄杓からお湯が注がれる音、自分たちにだけ聴こえるかすかなその音で、主人と客人は忘我の心境に導かれているはずだ。そんな音楽があっても良い。神楽や管絃は本来、聴衆など無かった音楽なのだ・・・
以下、当方蛇足。
音についてのこの国の人々の繊細な感覚は、他の五感にもあてはまります。
削ぎ落とし、削ぎおとし、あえかなものにし、時間、空間をの中に消え入るようになる刹那の美。美、というより、存在、とか、本質と言い換えてもいいような、その時間、空間に立ち会う、同化すること。
茶でも花でも能などの身体芸術でも、庭でも雅楽でも、なんでもそうだ。すべてのベクトルがその一点を目指す。
筆者のいう「忘我の心境」は、まさに、その時空に立ち会った、そしてそれを正確に感受することができた人だけが感得する心境です。
随筆は、最後に和歌の引用で終わっています。
「わが宿の いささむら竹 吹く風の 音のかそけき この夕べかも」
意味は簡明だ。庭の笹竹のかすかな風音に、この時家持も忘我の心境だったのに違いない・・・
20年以上交誼いただいています。ほんとうに有難いことだと思います。