この本については、東西のあらゆる識者があらゆる角度から言及しており、当方のしゃしゃりでる隙間などほとんどない。
ただ、当方渉猟した限り、きちんと論じられたものにお目にかかったことがない、今日は、第八章 塔 という章に限定して、簡潔に書く。
全編凄い本だが、特に、初めて読んだ時から、この章に動かされた。ぼーっとしている時、この章のいくつかのくだりが頭に浮かぶこともよくあった。
内容は、「1955年、妻の死後、私は自分自身にならねばならぬという、ある内的な義務を感じ」、既にある塔の建物を増築して、「成熟の場所」として引きこもり、「電気を使わず、炉やかまどを自分で燃やし、静寂に取り囲まれて、『自然とのおだやかな調和』の中で」生活する。そのあれこれを淡々と記述した、この書のなかでは比較的、論考的な要素の少ない、身辺雑記に属するもの。
少し引用します。
「時には、まるで風景の中にも、事物のなかにまでも拡散していって、私自身がすべての樹々に宿り、波しぶきにも、雲にも、そして行き来する動物たちにも、また季節の移りかわりにも、私自身が生きているように感じることがあった」
美しい記述だと思います。
ユングで残念だと思うのは、ここまで来ているのに、無意識レベルから、ついに抜け出ることがなかった、という歯がゆさ。
無意識の先にあるもの。大いなる一。うえの記述は文句なくそれだ。それを体験していながら、なぜ「無意識」で遊んでいるのか。
フィレモンだの、「か」だのは、まだちょろいぞ。
キリスト教的二項対立との格闘にエネルギーを遣い過ぎたか。
久松真一との対談で、久松にだめだしされたのも、そこだったのではないか。
細胞壁の人だったか。
※「細胞壁」については、お手数じゃが、このブログ10月22日付け「マイスター・エックハルト雑感を参照してくだされ。