啓発舎

マジすか? マジすよ

 

 

シネマ「影の軍隊

 

 

第二次大戦中、ナチス占領下のフランスで、祖国のために戦うレジスタンスを、フレンチ・ノワールの巨匠J・P・メルヴィル監督がクールなタッチで描く傑作戦争ドラマ。

  

出演
リノ・バンチュラ,ポール・ムーリス,シモーヌ・シニョレ

監督
ジャン・ピエール・メルヴィル

 

 

 

 

タイトル「影の軍隊」はセンスゼロ。

なかみと全然あってない。

 

主宰が、正しい邦題を授ける。

 

「じいさんばあさん」

 

この映画の主役は、色、です。

青、あるいは蒼、と灰色。

 

リノバンチェラとシモーヌシニョレが森の中をそぞろ歩くのは、しみじみだ。

おフランスエスプリ、ここにあり。

いい映画をみた。

 

追記。

シモーヌ シニョレは、眞子さまにそっくりだ。

 

以上。

岩波「図書」7月号届く。

一時やたらにけたたましかっとのが、だいぶ静かになった。

岩波は、こういうほうがいい、数字を狙って時流に阿ったり、エキセントリックなだけな女、失礼、女だの男だの、を起用すると、逆効果、ということもある。余計なお世話か。

 

◆「戦後文学としての荷風文学」

 ああ、荷風は、暗い時代にあって、「無用の徒輩」「下愚」浅草の踊り子に深い愛情をそそいだ、として断腸亭の記述をひっぱる。

 

 疑いもしない。

 

 スマホからメール返すると「★◎さんは書きました」というのが出て、消したいのだが、おれの技術では消えない。

 

荷風は、これです。

「なんたらかんたら」と、荷風さんは書きました。

 

思いました、ではない、書きました。

 

荷風の戦後のエピソードで、踊り子の証言を、どっかで読んだ。

置かsを持参して楽屋で油を売るのだが、踊り子は何人かいるのに、贔屓の子にしかおかしをあげない、と。

 

苦労人には、これは絶対できない。

おれとかですら、みんなでわけあって、ってやりますよ。

 

それを平然とできる荷風さん。

この踊り子の証言は事実だと思う。

事実でない、としても「真実」だ。

 

だから荷風は、好きだ。

「凄い」奴なんですよ、こいつは。

 

荷風が、踊り子をほんとはどうみていたか。

ヒトか、モノか。

 

再度いう。

荷風は、すごい奴だ。

一筋縄ではいきません。

 

筆者の三谷氏は、おれが在籍した時分の政治学の教授だ、抗議はとらなかったが。いずれにしろブンガク方面ではない学者さんです。

政治学は、文献を、まず、なわけねえだろ、と疑ってかかる精神は、あまり必要とされない分野か。

 

筆者の論考は、戦争の暗い時代で「下愚」な人々に対する暖かいまなざしを維持し、時代に抵抗する荷風の「戦争文学」、なんと素晴らしい、という、法学部らしい、わかりやすい筋立てなので、おれがあれこれいう筋合いはない。

荷風を、まず、そう決めたら、あとは一気呵成であります。

 

どうでもいいはなし。

◆テレビ届く。

 youtubeの情報量は凄い。

 ジャズを芋づる式に見ていると、あっというまにN時間。

 脈絡がないので、時代は前後するはスタイルはごちゃまぜだは、ソロはあるはビッグバンドはあるは、声はあるは楽器はあるは。

 

 で、わかるのは。

 あらゆる音楽は、二つに分類できる、例外はない。

 

 

 いい音楽と、そうではない音のかたまり。

 

 音源が、どれもこれも、濃い、ので、たまにBSに画面を移動すると、その、画面全体が弛緩しているかんじに、驚く。

 

 JAZZやる奴ってなんで、みんな、求道的なんだろう。

 現代の求道者は、禅寺などにはいない。ジャズのライブハウスに逼塞している。

 

◆ひとと会う。

 ヒトではない、人です。

 上皇ご夫妻と遭遇、で盛り上がる。

 しみじみ。

 

◆地下鉄について

 上の用事で地下鉄に乗る。

 決して出不精だとは思わないのだが、なんだか外出が、アレ、なのは、地下鉄のせいもある、と気づいた。

前回乗ったのが、N響だから一週間ぶり。

 地下鉄の空間は異様ですよ。

 毎日乗ってる奴はわからないだろうけど、充満する漠然とした他者に対する悪意のオーラは、ただごとではないぞ。

 悪意、というのは、直截な表現なのは認める。

 警戒、というのも強いか、油断していない、個、として世界に対峙する、というか。

 この場合の世界は、もちろん、純粋に、ヒト、これは具体的、およびその集合、これは抽象的、世間、というやつですね、だ。

 

 市中に閑居していると、こういうことに、やたらに敏感になる。

 

 で、ますます籠る。

 

 という、良い循環により、主宰の日常は軽安なり。

 

 世間との関係がこうだと、書くことなくなるんですよ。

 いや、あることはあるんだけど、それは、自分とか世界、ヒト以外の、ね、ということなので、それはこのブログには書かないので、どうでもいいことをどうでもいいレベルでグダグダするのは、間遠になるのは必然か。

◆わたしはわかりません

 

 今年の「主宰が選ぶ第一回輝け流行語大賞」は、これできまりだ。

 このご発言で、啓発舎流行語大賞が発足してしまった、と言い換えても良い。

 選考理由は、くだくだ言わないほうがよさそうだ。宮様のためにも、私のためにも。

 

 いや、いま当方の身の回りで起こってることとと、これがシンクロしたおんですから、ついつい。

 

 地べた関連の仕事をやっていると、よくいる。

 当事者として登場。或は当事者を代理する立場として。

 いいとこすくめのの案件の持ち込み、という体裁をとる。

 その件は、どうでこうで、と引っ張る。

 そのうち、いや、本人となかなか連絡とれず、だの、先方決裁が遅れているようですね、だの、ここのフレーズはヴァリエイションがある、が、いずれにしろ、雲行きが。

 で、最後の決め台詞が、冒頭だ。

 

 私はわかりませんよ、そんなこと。

 

 これ、日常。

 銭金さえからまなければ、いつものことね、でケリです。

 これに目くじらたてたら、不動産の世界で、情報入いらなくなる。

 肝は、絶対銭金ざたにしないこと。

 手付、といいますか、予約とでもいいましょうか、少しばかり預けていただくと、にのっかるとアウト。

 私は、だから、いまのところ、セーフです。

 

 この業界だけで通用する常識。

 出るとこ出たら、裁判すれば、そりゃ負けます、そいつが。

 わかりませんとか言って、あんた当事者、権限者だっていっただろ。

 無権代理、というやつですね。

 

 

 不動産ならまだいい。

 

 実の娘に、これをやるか。

 

 どうでもいい話にもふたつあって、どうでもいいけどおもしろ、と、どうでもいいけどどうでもいい、の二種類。

 本件、もちろん後者だが、いま、少し、その「わたしはわかりません」におれがからんでいることもあり、つい書いた。

 

 再度言う。

 実の娘の一番大事な局面で、これを言うか。

 

 やっぱり、後味わるいね。

一晩たって、まだ余韻が。

その、フワフワは、一体なんだろか。

大勢が一つの目的のために集まって、集中する、その時空間に居合わせた、その名残り、面影、ということ、だと思う。

面影、なんて、一般には、ヒトに対して用いられることば、だと思うが、あの人の面影、とか、おれは、ヒトは、もう、あれなので、いちいち繰り返さない、こういう素晴らしいことばを放置するのはもったいない、まさに、きのうのような稀有な事象に、これを適用するのが、四方おさまる。

 

 

神田藪がダメ、もう足を向けません、は悪い気分ではない、とおとといぐらい、書いた。

これは、秩序、ということです。

縄張りには、それなりにアンテナを貼る。

ここは、もう要らない、となると、それに関わるあれこれが不要になり、すっきりする。

場所も、モノも、ヒトも、なんでもそうです。

 

京都も銀座もいりません。十分面影があるから。

 

以上、本日は備忘録。

ということは、どうでもいい、の矩を、すこし踏み越えてしまった。