凡庸、ということについて書く。
とっちらかって収拾つかなくなったらそこまで。
8月最終日。
この夏は、なんとか大きな消耗なくやり過ごせた。
大雨も体にはよかった。
運動会も、おいらのはるか頭上を通り抜けた。
こないだのブルーインパルスみたいに。
で、この、やり過ごしたことどもの痕跡に、凡庸、ということばが浮かび上がる。
このクニ、といってもヒト、といってもよい。
こういう議論になると、必ず、そういうおまえは、と。
なにさまだ、と。
もとより私は、生まれてこのかた、とことん、おれさま、なので、いまさらなにさま論争には参画しない。
相対的に自分を優位におくために、巷を低くみる、ということではない。
遠くかなたからながめるイメージ。
冥王星人の視点。
で、凡庸。
結局あれですよ、いま思いついたたとえは。
ベアリング。
ボールベアリング。
いくらキミタチの車輪が回転しても、おれ関係ねえよ。
という立ち位置で、すでに、この10年ぐらいは、いるので。
銭金のしがらみも、一般ピーポーとはほとんどないので。
いま、「凡庸」をあれこれする気にはならない。
めんどくさい。
そんなこといちいち書く筋合いはない。
せっかく天翔ける時空であそんでいるのに、ゴミの腑分けをするのは愚か者だ。
一人称です。
客体は、対象はない。
だれになにを言ってやる、筋合いはない。
凡庸を、凡庸に向けて語るのは愚、なり。
とっちらからなくてすんだ。
おれさまが賢者である所以なり。
ハハ。