図書館。
kotobaという季刊誌をざっと読んだ。
自分のために書く。
今回のkotobaの特集では「孤独」に様々な面からせまってみました。
ブッダ、アルベール・カミュ、エドガー・アラン・ポー、サン=テグジュペリ、ニーチェ、永井荷風など、古今東西の思想家、作家たちが、孤独とどう向き合い、独自の思索世界を展開してきたのか?
また、独自の孤独論を展開する、下重暁子、齋藤孝、岸惠子、田中慎弥を始めとする、作家各氏にも、孤独との付き合い方について自身の考えを忌憚なく語っていただきました。
加えて、孤独をテーマにマンガを書き続けてきたつげ義春先生の1967年の名作『海辺の叙景』も掲載します。発表されてから50年経過した作品ですが、孤独な登場人物たちの醸し出す人情の機微は、じわじわと胸の深いところにしみ入っていきます。
編集し終えて思うのは、生活の中で、わずかでもいいから「孤独の時間」を作ってみる必要性です。孤独になることは怖いことかもしれません。しかし、孤独にならなければ得ることのできない力、そして自由というものがあるはず――そんなことを考えさせられました。
これを一読すればわかるように、甘っちょろい若造によるすかすかの編集。
孤独評論家の下重さんは、題材が山頭火だろうと放哉だろうと、いつもの歌をうたう。
斎藤孝は、いかん、こんなのに関わってると、またガス欠になってしまう。
こいつについては、以前、あの谷沢栄一が口を極めてののしっているのを読んだことがあって、いつもの谷沢節であったのだが、あんたがむきになるような相手じゃないのにな、と思ったことがある。
で、なんだっけ、お座敷さえあれば、注文通り歌う書き手を見繕って適当にまとめました、の体裁ではあるのだが。
田中慎弥という作家のインタビューを読んで書く気になった。
おれと似てる。
ひとりでいることに「淫する」ということ。
「編集し終えて思うのは、生活の中で、わずかでもいいから「孤独の時間」を作ってみる必要性です。孤独になることは怖いことかもしれません。」などと甘えた寝言をほざくガキ、だろうたぶん、の編集には逆立ちしても月面宙返りしても絶対わからない、自分と二人だけの甘美な時間の流れ。
他の書き手は、「孤独」でることに肩ひじ張るのよ。
逆だ。
独りでいるから肩がほぐれる。
うろ覚えだが、ニ三人で、そこらで飲んだりすることもあるが、それなりに、やりとりもするが、結局その場の流れによりそうことになって、自分のホントとのずれを意識して終わるとほっとする、というようなくだりがあった。
そういうことです。
他者と交渉する、ということの本質は、これ、なので、いたしかたない、別に不快ということもない相手であれば、やりとりして時間を過ごすのにやぶさかでない。
おれも、田中氏もおそらく、スタンスは同じだと思う。
でも、そうだよね。
だから、その時間が終わって、自分と二人だけになって、途切れない時間がこれから流れる、というときの甘美な、ほっとした心持ち、というのが、何物にもかえがたい、のです。
孤独、ということばは、別に嫌いではないが、今回の特集のぼんくらな書き手が眦決するような、そういう手垢にまみれた響きがどうしてもあるので、おれは、自分と二人きり、という言い方をする。
そのかんじを共有できるのが、今回の特集で唯一田中氏のインタビューだった。
知らない作家だが、どてらい奴かもしれない。
ブンガクは勘弁だが、エッセイみたいなのがあれば立ち読みしてもよい。
期待はずれは、いつものことだ。
で、今日は、そんなんで、自分とふたりきり。のやくらやってます。
こうやって自分のために書ける。
というのも。
明日から土曜まで、ひとと会う用事6連ちゃん。
明日は午前来客午後三茶で打ち合わせで二組こなす予定。
ということで、今週は自分を世間に貸し出す毎日がこれから始まるのね。