啓発舎

マジすか? マジすよ

N響 デュトワ

N響第1875回 定期公演 Bプログラム
ハイドン交響曲 第85番 変ロ長調 Hob.I-85「女王」
細川俊夫/ソプラノとオーケストラのための「嘆き」― ゲオルク・トラークルの詩による(2013)*
メンデルスゾーン交響曲 第3番 イ短調 作品56「スコットランド
指揮:シャルル・デュトワ
ソプラノ*:アンナ・プロハス


よかった。
一言だと。
デュトワの端正な棒に、オーケストラが、なんとか追いついた。


では、個別に。
細川氏の作品から
これはスタンダードになる作品ではなかろうか。
打楽器が大活躍だが、全体としては、静謐。
ソプラノは、時として、絶叫、失礼、に近い、しかも唐突に、歌いだすが、はったりとかかましではなく、必然性がある。
何度も書いたが、歌ものは、テクストはなるべくあっちに置いといて聞くようにしている。
歌詞は、そもそもドイツ語だから全然わからない。


だが、曲想から、なんだかのっぴきならない状況に事態は推移してもう引き返せない、という緊張感は、ひしひしと伝わる。


デュトワの棒を後ろから見るのは、この音楽をリアルタイムで把握するのに有益だ、もちろん、初めてなので、どこまで構造を理解できたか、心許ないが。


静謐、緊張感、なにか禍々しいことの予感、そしてカタストロフ、鎮魂、というような流れであっただろうか。

今夜は、この曲だけでおな一杯です。


補足。蛇足。
失礼ついで。
歌詞がドイツ語で深刻な音楽だと、過去の経験から、どうしても、とっさに、収容所、とか、ジェノサイド、とかの言葉が浮かんでしまうのは、そうでないのはわかっていても、歌手の方が厳粛であるだけに、なおさら、そういう、自然災害ではなく、人為の虚無洞穴、という、体感で自分がいっぱいいっぱいのなるのは、結果として作曲家の術中にはまった、とはいえないか。
なにを感じ取るかは、聞く側に属す。
だからこそ、テキストから自由でいたい。
そして、たとえ、作曲家の目論見と、それが違ったとしても、ずれたとしても、聞く側に、言語を介在しないレベルで響いたとしたら、それは作曲家冥利ではないだろうか。
終了後、デュトワが、ほとんど執拗なまでに作曲家を称揚したのは、日頃デュトワのステージングに点の辛い当方も、この曲に関しては、ご同慶でありました。



◆前後のハイドンメンデルスゾーン

ハイドンは、第一ヴァイオリン訓練の素材。
通しのリハーサルに立ち会った、という印象。
今夜は、細川氏一曲で堪能したので、あまり憎まれ口はたたきたくない。
が、しかし。
ハイドン出だしの1stVnのかさかさした音は、なんだ。
だんだん、少しはましになったが、フォルテはばらばら、全然溶けない、弱音はかさかさ、これはさっきも言った、じゃ、どうしようもない。
デュトワは、丁寧に、忍耐づよく、1stVnを鼓舞し続けた。
右側のチェロが丸いつやのある音を、特にメンデルスゾーン、で出していただけに、左かさかさ右しっとり、で、左のお肌かさかさ感は、いや増すばかりだ。
同じことを何度も言うが、1stVnは、早めに立て直しを図ったほうがいい。


最後は褒めて終わる。
今夜のMVP。
オーボエ
やわらかく、暖かく、コケティッシュ
一曲目のハイドンで早くもメロメロです。
休憩時余韻を反芻していたらモルツが五臓六腑にしみた。