書こう書こうと思って時間が経ってしまった話。
◆日経11月13日(日)付け。
タウトがみた日本画 中 狩野永徳とルーベンス
思いつくまま
・何故、永徳とルーベンスだ。
時代が同じというだけだろう。
あまりに資質の違う両者をわざわざ引っ張ってきて、あれが違うこれが違うといってもしょうがないだろう。
・京都の杉本秀太郎氏の論評が傑作
「僕は商家出身なので、一番の好みは俵屋宗達の絵。狩野派のような武張った絵はあまり好きではない。」
「武家の芸術である狩野派のなかでも、永徳の絵はとくにしつこい。このしつこさでルーベンスの絵と通じ合う。ただし、永徳の絵が威圧的で骨張っているのに対して、ルーベンスの絵は肉感的で優雅で丸みがある」
狩野派の絵が「武張ばっている」という意見には異論がある。狩野派全体は、武張っている、というより軟弱、バカ殿趣味、ステロタイプというのがおいらの見立て。
二条城には辟易だ。
で、次の「永徳の絵は、威圧的で骨張っている。」だが、これはそのとおり。
永徳だけ、違う。
いや、山雪山楽もそうか。狩野派、のイメージからはずれるか。
ともあれ、杉本氏は、「威圧的で骨張っている」から、永徳は、どうやらお好みでないようだ。お好みでないようだが、永徳をよくとらえた評言だ。
おいらは、「武張って骨張っている」から永徳に惹きつけられる。
虚勢を張るだけでは、あれだけの迫力はでない。
聚光院の梅は確かに武張って骨張っている。いや、武張っていると受け取るかどうかは見る人次第だと思うが、骨張っていることは間違いない。
ただし、これを単に骨張っている、と見るか、引き絞った弓のような、張り詰めた、自然法則のような線、と見るか。
私は宗達も好きです。大好きです。
洒脱、遊び心、粋、モダン、洗練。
風神雷神は、この国の宝だと思う。
ただ、宗達に、永徳の、ちょっと凶暴の感すらある描線を求めるのはないものねだりというものであろう。