啓発舎

マジすか? マジすよ

子規と遊ぶ

波は森まゆみさんの連載だけが楽しみだ。子規と直接、というのはこちらが露骨に位負けするところがあるので、手練れのガイドがあると助かる。
今回、特に、瞠目すべき引用があったので、そのまま載せる。

 ベラボーメくそをくらへと君はいへどコン畜生にわれあらなくに

 子規の作品。

 もちろん文脈はあるので、「貴人のいいかげんな法螺を吹きて気取りたる」歌と比べれば、こっちのほうが「市井の小児の善も知らず悪も知らず天真爛漫のままに振る舞うが如し」として掲げてあるようなので、「天真爛漫な小児」として試みに詠んでみました、ザレ歌です、というところ、と一応は推測できる。

 でも、そうか。
 
 小児に身をやつしたふりして、ほんとに読みたい三十一文字を書いてみました、ということではないか。ひょっとして。
 子規さん、いかがでせうか。


 八大竜王雨やめたまへ
 に匹敵する、と自賛していらっしゃったのでは、あるいは。
 と勘ぐった乃公は、遂に、勇を鼓して、青空文庫で子規と向き合つてきたのであつた。


 すなはち、歌詠みに与ふる書、を十たびまで全部読んでみた。


 背中をどやされるような、猪木にびんた張られるような、読後感であったよ。
 峻厳の気を帯びたぜ、慣れない言葉をつかうが。

 で、感想。

 貫之は下手な歌よみにて『古今集』はくだらぬ集に有之候。

 なんて、冒頭の、つかみ、だったんだね。

 アジというか檄というか。


 定家についても、

定家ていかといふ人は上手か下手か訳の分らぬ人にて、新古今の撰定を見れば少しは訳の分つてゐるのかと思へば、自分の歌にはろくな者無之「駒こまとめて袖そでうちはらふ」「見わたせば花も紅葉もみじも」抔などが人にもてはやさるる位の者に有之候。定家を狩野派かのうはの画師に比すれば探幽たんゆうと善く相似たるかと存候。定家に傑作なく探幽にも傑作なし。しかし定家も探幽も相当に練磨の力はありて如何なる場合にもかなりにやりこなし申候。両人の名誉は相如しくほどの位置にをりて、定家以後歌の門閥を生じ、探幽以後画の門閥を生じ、両家とも門閥を生じたる後は歌も画も全く腐敗致候。いつの代如何なる技芸にても歌の格、画の格などといふやうな格がきまつたら最早もはや進歩致す間敷候。


 と、「自分の歌にはろくな者無」と切って捨てておいて、相当に練磨の力はありて、と実はちゃんと一目置いている。

 優れたプロデューサーだ、と。


 総じて、これは、子規居士の啖呵の切りっぷりを観照、じゃない、鑑賞する作物です。
 再読どころか、百読にたえるぞ。


 森まゆみ氏に誘われて、愉しい散歩ができた。

 ところで、「ベラボーメ」の歌は、「歌詠みに」のどこを探してもみつからなかったのだが、出典は別なのだろうね。

 短冊に書いてもみぐるしからず、との託宣のようなので、実際軸にでもして玄関にかざってみようか。