啓発舎

マジすか? マジすよ

ビールとワインだけだが、三傑を発表する。

・定家
・永徳
・後水の尾

なんの三傑か。
・煮ても焼いても食えない。
・とことん好き。全部。嫌いなところなし。骨まで食える。
という奴がいるか、郵便ポストにも電信柱にも文句をつけるおれが、いねえよな、と思いかけたら、たちまちこの三人が浮かんだ。
おっと、大事なことを忘れていた。
・美、というんんだろうか、究極に遊ぶ、ということを普通に、日常にしていた。
この三条件

この三人のうち定家は、特に三番目の「美」については留保がつくかもしれない。
自分で、どうせおれはダルマ歌だ、と言い放っていたぐらいだ。同時代にあっても、技巧、とかひねくれ、とか、散々言われていたわけだ。以来、この人ほど、遠慮なく貶されまくる人も、日本の歌の道のみならず、文芸一般で、そうはないんじゃなかろうか。
そんなことではない。西行、実朝、後鳥羽を手玉にとり、美の判者として君臨した時代精神は、紛れもなくこの人に帰する。
この時代にこの国が、突き詰め、そのため後の人々が、マニエリスムに陥ってしまった、その、本歌とりでもなんでもいいや、この国の美に関するすべてを糾合する、ゼロポイントに向かう、すさまじいエネルギーは、この人を通過していった、ような気がする。

永徳は、これはもう見るしかない。
じゅこういんの襖絵と、晩年のギュルギュル檜。
唐獅子も忘れてはいけない、あの陣太鼓が聞こえてきそうな、なんてもんじゃない、がんがん現に聞こえるあの迫力。あの時代のエネルギー。
じゅうこういんの筆さばきがあった後、この国の梅の樹のみなさんは、枝ぶりにあの線を出すというプレッシャーでしばらくたいへんだったそうだ。自然が人為を模倣する好個の例だ。ほんとか。
後水の尾の、やけっぱちの好き勝手。
修学院。

まわりのこと、人、などどうでもいい。おれはおれの好きなことをやる。
美だの究極だのは、たぶん、それほどこの三人の裡にはなかったのではないか。好きだからやる、文句あるか。
淫するのみ。
傍迷惑なおやじだったろうな、三人とも。

おいらの英雄です。