午後から丸の内でオーケストラの練習。
ワグナーのトリスタンとイゾルデ、ブラームスの4番というねっとりしたプログラム。
やってて思うのは、ワグナーの革新性ですね。すごいね。
ただエッチなだけではありません。
浮遊して浮遊してこの先どこにいくんだろう、という。
ブラームスにはそこまでの方向はない。
それは勿論ないものねだりで、もとより、その方向性を探ってはいなかった。
晩年のピアノが到達点だとすると、まあ、それは当方が勝手に思ってるだけかもしれないが、調性に回帰して、私はこの中でやるんだ、という意思表示をしている、ようだ。
調性の破壊が、革新が、べつに偉いことではない、そこに内発的な必然性があるか、ということだ、肝心なのは。
そして、ブラームスは、自らをその中で自由に動きまわる、ことにした、ということにすぎない。
今回4番なのだが、この曲おw好きかといわれると微妙だ。
三楽章は申し分ない。二楽章もまあまあか。
終楽章は、どうか。
はるかむかし、学生のころ、上野の文化会館でN響がホルストシュタイン氏の指揮でこの曲をやったことがあった。
都の文化事業。そうでもないと、N響が文化会館でやることなどめったになかった、から。
当時、サントリーホールもできていなくて、すかすかなNHKホールでしか、聞けなかったんだよ、N響は。
で、それが凄かったのだよ、明智君。
なんだろ、この野郎、という感じ。
N響とホルストシュタインだから、指揮者とオーケストラが仲悪いということはあまり考えにくい。
ドイツのはったり。
それだと思う。
たとえば、ドビュッシーはこの曲をどう評価するか。
マーラーは、そこにいくと、もっとユニバーサルになってくる。
いっとくが、いい悪いの、価値の上下のことを言っているのではない。
バッハはなんだ。無伴奏チェロは。
人類の至宝は、他ならぬこの地球という球体と、それから、バッハの音楽空間。
ブラームスはローカルだ。
それにしても、なんと素晴らしい隣人であることか。