寒いというより、痛い、という体感だ。
寒いと、つい昨日みたいになる。ここまで書いたら、後戻りできない、前進あるのみだ。
演算。
来る、と、じわじわ、の二種類にわける。説明の便宜。
今夜は、「来る」について。
いきなり光臨するのね。
コンサートで例示。思いつくままに。
「きた」コンサート
ブログですでに書いたのも対象
◆小澤桐朋学生オケの弦チェレ
◆芸大寄せ集め臨時編成オケの悲愴三楽章
◆ベルティーニ都響のマーラー6番
◆ペーターマーク都響のモーツァルト29番2楽章
◆ペーターマーク都響真夏の夜の夢序曲
◆自分でやったプラハ1楽章
◆ホルストシュタインN響のブラ4三楽章
全部学生時代
学生時代は、ずいぶんと、光臨あそばされた。
一番大きな原因は、腹が空いていたことではないか、と思う。
都響で3つあげたが、都響といえば本郷で遅い昼飯を食って、池之端から不忍池を突っ切っていく道すがらの空腹感だ。
小澤弦チェレと芸大悲愴は、もう書いたので、それ以下について、補足する。
ベルティーニのマーラーは、やけくそ、です。冒頭の行進から、髪の毛、当時からあまりなかった、ふりみだして収拾つかない。
これで、マーラーが、わかった。早くわかって、良かった、その後今日に至るまで、時間を無駄にしないですんだ。
ペーターマークのモーツァルト29番は、冒頭もよかった。AdurのオクターブをVnがやわらかく弾き出すところ。
それでびっくりして、あわてて切符買ってマチネのメンデルスゾーンを聞きにいったのだった。
序曲で、弦が例のパッセージをお品よくやってから一転にぎやかになって、ホルンが天上から降りてくるところ。
プラハは、うまくいくとこんな気持ちいい音楽はない。ひたすら疾走する。感情が追いつかない。
ホルストシュタインは、三楽章冒頭で、ため、を作る流儀。
空腹に感応したのか。
それで思ったのは、時期、というのはあるものだなあ。
音楽は、こうしてひとつひとつあげていくと、学生時代に集中する。
いま、あれほどの、「くる」体験はない。
視覚を中心とした時空認識でいうと、京都を徘徊していた時分だ。
その感覚を名付けようがなくて、とりあえす「美の不意打ち」という、いささか大仰な言い方をしていたものじゃ。
演算は、腹が減る、とか、無自覚に歩き回る、とか、そういう、肉体がメモリーを一時的に追い出すような状況に活性化する、という仮説が、以上のエピソードから導き出される。
じわじわ、は、またちょっと違うんだよね。
今日はここまで。