去年のことだが、11月28日、大徳寺の月釜に行った。興臨院と玉林院におよばれする。
茶会自体には特筆すべきことはない。むしろ、少し片付かない気持ちが残り、玉林院からの帰途、お隣りの高桐院をのぞいてみたのだった。
そこで、美の不意打ちにあった。
記憶は嘘をつくから油断できないのだが、なるべく、当時感じたことを思い返して以下記述する。
高桐院は、3年ほどまえの初秋に、東京からの客を案内して以来。そのときは、あまり強い印象がなく、今回も、気分を変える程度の軽い気持ちだった、紅葉の季節だったし。
平日のせいか、人出はあまりなかった。
少し沈んだ気持ちで、例の長いアプローチに差し掛かると、鮮やかな黄金色の紅葉が広がった。その向こうには朱の、これも紅葉。
で、桧皮葺の門に。
その辺りで、やおら、まわりが少し変質したようだった。
黄色もある。朱もある。苔むした桧皮ぶきの緑もある。空の白もある。
けれども、それらの形象は、最早空間の中に溶け込んでいる。
五感が捕らえるのは、抽象化された空間、と、時間、の感覚。時間、については、静止しているようでもあり、流れているようでもあり、そこは不分明であるが、ただ、時間がある、という感覚。
名状し難い安堵感。
それが、しばらく続いた。
おしまい。
実は、パソコンが重くなったので、写真の整理をしていて当時の記憶が甦ったという次第。
帰りに一応写真はとったので貼っておくが、まあ、抜け殻ですね。