啓発舎

マジすか? マジすよ

書類整理していたら、N響更新案内を発掘した。

6月中に回答しないと、口座引き落としされてしまうそうな。

ほっときゃ解約、ではないようだ。

 

そうですか。

今の時点では、さすがに、通い続ける気合はどこさがしてもないが、せっかく6月中だというんで、もうしばらく時間をおこう。

 

で。

それに触発されて。

少し長く、とりとめなくなるかも。

 

コンサートは、音楽を聴く場というよりも、まずは、前後左右にヒトがひしめきあっている空間、である。

 

これに耐えて、なおかつある程度の精度を保って、音楽のみを選って受信するセンサーでありうるか。

 

全然悲観ではない。

 

このところ、加速度的に、ヒトおよびヒトの集合への感性というか、が、いやましてきた、ようの思う。

 

 

これは進化、あるいは深化といえる。

 

静謐、ということについての。

 

 

静かになれば、ヒトの騒々しさ、けたたましさに敏感になるのは、自然の流れだ。

 

 

という領域に、たぶん、おれは、いま、いるんだと思う。

 

コロナの影響、いい意味で、も与って力あるかもしれない。

 

 

そのレベルの静謐の中に、ふだん、いる、ということの証左、ということだ。

 

 

このところ、NHKBSで日曜の夜中にやってる、バレーだのオペラだのの長尺を、毎晩みている、というか、流している。

 

ここから得られる感興は、もちろん、コンサート会場とは、まったく違うものだが、センサーとして、ヒトヒトバイアスを除去する作業は、必要ない。

 

それはそれで、ゴージャスである。

また、安寧、が確保されている。

千代田の夜更けは深閑としている。

 

 

そういうふうに、自分の環境をマネージ、なんていうカタカナを使っちゃったよ、整える、か、かんじに、これから自然になっていく、ような気がする、というより、すでにそうなっている。

 

 

もちろん、ある程度先を見据えた、というほどでもないか、眺めた、景色として。

 

ヒト、というのは他人の意で、ヒトでもある自分は一人称は、ヒトではなく、自分、とか当方と表記し、ヒトの集合からはずす。

違いは、ヒトは、わけのわからない、予測不能な存在、と定義されるが、自分は、多少は予測可能である。

なおかつ、唯一五感のセンサーを感受できる。

同じ音楽を聴いて、ヒトがなにを受け取っているか、あずかり知らない。

 

で、五感のセンサーである、これを認識しつづける、神羅万象に対する野次馬でありつづける、というのが、おいらのミッション、であるとすれば、これは全然インポッシブルではない。

 

 

天下無敵モード、という気もする。

 

 

そうなってきてる感じが、このところ、する。

 

これが、さっきいった、ある程度先を展望したイメージだ。

 

 

慶賀すべきことなり。

 

 

n響は、没だな、やっぱし。