啓発舎

マジすか? マジすよ

 

まず。

 

 視点を変えて考えるなら、現代人は双方の合意に基づいて、お互いに都合の良いコミュニケーションをしていると同時に、用途や場面、媒介物にふさわしくない部分についてはコミュニケーションしないで済ませている、とも言える。私たちは双方に都合の良い、社会契約にも妥当するコミュニケーションに徹することによって、そうでないコミュニケーションを日常から排除し、キャラクターや役割やアバターには回収しきれない、お互いの多面性を知らないで済ませようとしている。
 これは、コミュニケーションであると同時に、一種のディスコミュニケーションでもあるのではないか? 
『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』

資本主義が後腐れのない関係性を築くのと符合するように、私たちのコミュニケーションもまた後腐れのないように、不快感の少ないように効率化し、今となっては余計なことをできるだけ知り合わないコミュニケーション、いやディスコミュニケーションが正解ということになっているのではないでしょうか。

 

筆者は、「ディスコミュニケーション」を否定的な文脈でつかっている。

おれは、ディスコミュニケーションこそ、自分を獲得する唯一の鍵、技術。

と、まったく真逆の評価なれど、この筆者は引用した短い文章で、簡潔に、資本主義、新自由主義をつきつめると起きるであろう事態について、正確に、射貫いている。

 

おれは、もちろん、歓迎である。

 

だが、事実は、この筆者の見立てとは違う方向にいっている、すくなくとも、この騒動以後。この国では。

 

リモート、遠隔。在宅。

仕事終了。

上の見立てだと、そこで銭金雇用関係にもとづくコミュニケーション終了。

PC落として「後腐れなく」以後ディスコミュニケーション

という流れが、自然だと、おれも思う。

 

だが、現実はどうも違うようだ。

 

そこからzoomだかなんだかの仮想宴会をおっぱじめるのだよ。

 

 

後腐れない仕事環境がやっとできたというのに。

 

 

ばかじゃねえの。

 

はい、こんなとこ。

どうでもいいにもほどがあるネタは、これが限度。