啓発舎

マジすか? マジすよ

北の丸はこども天国だ。
おねえさんに引率されたり、トロッコ列車のおもちゃみたいので運ばれたりして、池の前の広場に散らばっている。
常時3つ4つの集団がいりみだれているが、帽子の色が識別する目印だ。
小学生も来る。これは、バスを仕立てて本格的。遠足か。
で、弁当なんか食ってるわけです。

で、これをしげしげ見ていると、興味深いことにきづく。


おねえさん引率組の学齢期前のこどもと、小学生と、で、行動パターンが全然違う。
以後、学齢期前のこどもを「こども」小学生は「小学生」と呼称する。

こどもは、ハトやらすずめやらとだいたい一緒で、そこらを走り回ったり、銀杏の落ち葉のきれいなのを選んで拾ったり、ハトにちょっかいだしたり。
引率のおねえさんと個別に疎通はするが、こども同士は、まだ密接なコミュニケーションは、みられない。
外部環境にすなおに即応している。
対外部の自然環境7、対おねえさん2、こどもどうし1、という注意の配分か。

対し、小学生は、これはわざわざ注意して観察するまでもなく、仲間内の人間関係9.8、対教師を含めた外部環境0.2というかんじ。
飯食いながらお互いになにやらやりあっているわけです。
まあ、醜いわ。
あいつら、こんないい天気に陽光を受けてキラキラ光りながら散っていくはっぱのはかない美しさなんか、誰も気にしてしていません。

以後半世紀以上、そういう日常を過ごすんだね。
おれの経験だと、小学生ぐらいが一番露骨で、以後、さすがにみんな懲りますから、牽制、ということを学習する、即ち「大人に」なるわけです。
やってることはかわらんが。


おれが、いままで生きてきて今が一番いいと痛感するのは、たとえばこういう時間を過ごすときです。


当然、小学生か「こども」か、といったらこどもに感情移入する。
見ていて、ゆるやかに時間が流れる。
こどもの拾ったどんぐりを褒めるおねえさんも、きれいにみえる。


誰でも、自然と虚心に向き合った時期があるんですね。


そして、老いぼれると、また、人以外のいとなみに自ずから惹かれていく。


ということでありますか。
年を取る、老いぼれる、というのがそういうことだとすると、それはまさしく祝祭の日々、といえる。