◆馬場紀寿さんの「初期仏教」 続き
前回、「解脱とは「自己の再生産の停止」なり」をとりあげたので、今回は、梵我一如について考察する。
めんどくさいが、すこし抜粋する。
「天界における再死」という問題に対する解決策として、ヴェーダの新層であるウパニシャッドでは、宇宙原理(ブラーフマン)と自己(我)との一致が提示される。自己が個人の属性を捨て、宇宙原理に合一することによって、「天界」における不死が実現するのである。これが、有名なウパニシャッド哲学における「梵我一如」に他ならない(P8〜9)
読み始めてまもなくこの一節につきあたっときの私の驚愕は、なににたとえたらよいか、いまちょっと思いつかない。
お布施が続かなくなると、せっかく天界で再生しても、再び死んでしまう。
これを解決する頓智として、天界の「我」はブラーフマンと合体するから、供物が切れても「天界における不死」は保証されるのだよ、という理屈を導入した。これが梵我一如の本質だ。
宇宙原理、大いなる一、なんでもいいが、およそこの世界を形作る原理、と自己は、本来一体である、そして、それを実際に感得するために、古来、修行者は、宗派を問わず、あらゆる行に自らをささげてきた。
それが。
ごめんごめん、これ、お布施節約のための、つじつまあわせでひねりだした理屈なのね、本来。
なんちゃって、なんです、修行だのなんだのでムキにならないでください。
ということだったのだ。
明日からどうして生きていこう。
梵我一如の体得こそがおいらの人生の究極の目標。
それが、こんなことで。
大いなる一との合一は、虚妄であったのか。
プロティノスは、スーフィーは、禅の行者は、下って、井筒さんエピゴーネンとかは、本家本元のヴェーダが、屁理屈だったと知ったら。
エキュメニズムの精神は。
というような議論が、これからなされるのだろうか。
今日は、こんなところ。