主宰の生活は、以下の3つの類型にわけられる。例外は、ほぼ、ない。
◆ぼーっとする
◆音楽を聴く
◆立ち読みをする
起きて、ぼーっとして音楽を聴いて立ち読みをして、ねる。
毎日同じだと芸がないので、たまに、起きて、音楽を聴いて、立ち読みをして、ぼーっとする、と順序を入れ替えたりする。
起きて、今日も、ぼーっとできる、立ち読みもするぞ、と浮かぶのは至福の瞬間だ。
瞬間、というのは語弊がある。持続するから。
立ち読みについてはおれは筋金いりだ。
昔は、立ち読みしてると、はたきなんかかけられましたから。
他にもいろいろされた。
書棚の一番したに引き出しがあって、店員が、おれの足もとのを無闇にひっぱって、中の在庫をごそごそやる。かまわず仁王立ちの主宰。
通り過ぎざまの体当たりにも動じない。
きのうだかおとといだかも、コーヒー飲んでる客の斜め前にずっと立ちはだかっていました。
しかし、なんだ、店の構造から、しかたないだろ、というのは理屈だが、迷惑だよな。店とか客とかには。
そこまでして、あるいは、されて、なぜ立ち読みするか。
緊張感、でしょうか、ね。
実は、今日は、正直いうと、立ち読みしていない。かわりに図書館にいった。
図書館は、だめ、とはいわないが、おもしろ指数は立ち読みには及ばない。
読んじゃうんですよ。それがいけない。
本はよむのが、たりめえだろ、という奴は修行がたりない。、
読むのではない、対峙するのじゃ。
これが読書の 要諦だ、肝だ。
と、今日、図書館でとつぜん、ひらめいた。
だから、くず本も、対峙できれば、おれにとって、この世に存在する価値はある。
見田宗介の寝言は、その限りで、意味がある。
とぶが、「君たちはどう生きるか」には、その価値すらない。
だめ、をあげつらうときりがないのだが、それで体力を消耗するのが、いやだ。
だれかかわりに言ってくれないか、と、amazon書評をみたら、罵倒してるのもあったのだが、ばかばかり、ピントはずれ。ほめるのもけなすのも、ばか。この本に群がる奴は全員カス。
ちょっと、きのう節目があって、割合機嫌よかったりするおれさまだ。