「雨降りなのでミステリーでも勉強しよう」という、二三文字違うか、素敵なタイトルのエッセイがあった。植草甚一さん。
雨降りなので、はずみで井筒俊彦さんでも、勉強、などと恐れ多い、ふもとから見上げてみよう、ということになった。
中公からでた著作集の9冊目、「東洋哲学」。
たとえば、禅的意識のフィールド構造。
ここで、禅の説話がひとつ紹介される。
出演者はご存じ馬祖道一と百丈懐海。
馬祖と百丈が連れだって歩いていたら野鴨が飛び去ったのを見た。
大師いわく あれはなんだ。
丈いわく 野鴨じゃないですか。
大師 いずこに去るや
丈 飛び過ぎ去れり。
大師 遂に百丈の鼻頭を捩じる
丈 忍痛の声をなす。
大師 全然飛び去ってなんかいないじゃないか
百丈 ここに至り、豁然と大悟す。
という話。
例によって手荒い逸話。
百丈がみた鴨は「客体」。我に対して別に存在する。
ところが、懐海に鼻をねじあげられて、忽然として野鴨が自分から独立して存在する対象ではなく、自己そのものと気付いた、と。
主客は対立するのではなく主も客も一緒、融合、同じフィールド、これぞ禅的意識のフィールド構造・・・と井筒先生の考察は進む。
流石に碩学井筒先生の多年におよぶ自らの修行と思索の結晶をそこまで単純化しちゃまずいだろう、という気もしなくはないが、禅から繰り出される論考は、たとえば鈴木大拙老師でも、逸話の解釈には、ステロタイプ感がある。
当方がガキのころ、中学の頃か、一時的に以下の遊びがはやった。
登場人物は二人。うえの逸話と一緒。仮に一人を懐海、あるいは大師と名付けよう、仮に。もう一人は百丈、と。仮に、ね。
大師 (いきなり百丈の鼻をねじあげる)
百丈 (忍痛の声をなす)いてえじゃないか。
大師 (かまわず)富士山みえるか。
百丈 え、なんだって。
大師 富士山がみえるか、と言ってるんだ(捩じる)
百丈 いたたた・・・富士山見えません。
大師 なに、みえないだと。愚か者。では、わしが見えるようにしてやる(更にねじる)
百丈 いてて・・・わかったよ。見える、見えた。見えたから離せよ。
わしらの遊びでは、こう続く
大師 なに、見えるだと。見えるわけねえだろ(ますます捩じる)
という、どっちにしろ捩じられる(わしらは耳でやったもんじゃが)という、百丈君やられ損の、懐海君の一方的なパフォーマンスでありました。
ちゃんと題名もあって、富士山リンチ、といいます。
だいたい、これと一緒よ。
最初にあげた野鴨の逸話では、百丈がとんちを利かして、二番目の答えを言う前に「大悟」してしまったので、更に鼻を捩じあげられることなくすみました、めでたしめでたし。
ナンセンスなことをナンセンスなまま収束させる。これぞ禅問答の極意。とおれは思う。
主客合一あるいはあれもこれも一緒、というのは、わかる。
行によってこれを瞥見する、というのもわかる。
わかるが、それがどうした、というかんじもいいかげんするのはおいらが凡夫だからか。
20年食いつてはいるのだが、そっちの世界にも。
20年たってそれがどうした、というのは、それはそれで「悟り」か。小悟ぐらいになるか。
井筒さんは、晩年になって、その辺りを凄い勢いで深堀り始めた。
おいらも最後の作品になった大乗起信論の論評は、初版リアルタイムで買った。
そのころ、92年ごろからのつきあい、といってもこちらが著作を通じて仰ぎ見るだけだが、50のおやじの世間智で、もういちど噛み砕いてみたい、という気持ちがある。
この年になれば、こっちだって対抗上、富士山リンチを繰り出したっていいだろう。
ビールおよびワイン。