◆きのうのツールは個人戦。タイムトライアルなので、あまり面白ではなかった。
勝ち負けとか、誰がはやいか、とかはどうでもいいのです。
景色とか沿道の人々とか選手がだんごで移動する遠景とか、お祭り見物のたのしみですから。
フルームが走ると凄いブーが起きる。これはどうかと思う。
イギリスだろうとコロンビアだろうとみんな一所懸命なんですから。
今日はシャンゼリゼだが、見物人の態度が悪かったら途中で消します。
この国ととなりの半島もそうだが、あまり国をしょってお下品にならないほうがいい。
もちろん、モラルとか人類愛で言ってるのではない、こ汚い景色醜い絵をみたくないだけ。
◆きのうの続き。長くなるかもしれない。
こうして過ごしていると、人間が普通にやっていくのがたやすいのには驚く。
飯食って寝るだけ。金なんか全然かからない。
お迎えがくるまでひまつぶしするだけなので、余計なわずらいもない。
生きるのに、少なくとも私は、目的などいらない。
こういう人に私はなりたいとか、既にない。昔はあったかもしれないが、忘れた。
かすかに、やっていく目安みたいなものがあるとすれば、自分である、ということぐらいか。
自分にうっとりでは、ない。念のため。
どんなになりたくても、私は、山田さんにも鈴木さんにもなれない。
山田さんは、たとえつむじ曲がりが大好きだったとしても、啓発舎主宰ではありえない。幸いなことに。
逆に、私が主宰になることは簡単だ。
主宰本人なのだから。自分が自分であればよい。
ここでいう主語の自分と、目的語の自分は、同値ではない。
自分である、或は自分になる対象であるところの自分は、主語の自分より、少し一般的な概念かもしれない。
ここで、人そのもの、とかおよそ人間という存在、まで一般化してしまうのは、少し暑苦しい。
人の人生は、「人間」という存在を究めることだ、みたいに、なりがちだ。
この暑い中、干物になるようなことはしたくない。
人間という動物自体は、サバンナで食うか食われるかしている生き物、であるので、人間を一般化しても、ゾウリムシといっしょ。
自分が自分になるなら、おぎゃあと生まれた時点で自分なのだから、じじいになってから四の五の言うなよ、という気もする。
が、しかし。
これは結構時間が要る、時間があって今があるな、という体感がある。
自分になるには一定の時間がいる。
ぼーっと過ごしてきた時間の推移が、どしても、あったほうがいい。
なんか別の存在であろうとする、とか、「向上」する、とかいう無駄なあがきから解放されるのにはやっぱり、時間、一定の時間が必要だ。
これを諦めという人もいるが、おれは、開放、という言葉がしっくりくる。
あるいは、他人とのかかわり、みんなのなかのあなたでしょ、なんて関係ねえだろ、ということにとことん肚から気づくにはすこし時間も苦い水も要るようだった。
で、まあ、なんだかんだあって、自分を、ほっとく、という仕儀になるのだが、これには、少しく技術が要る。
森羅万象どうでもいい、「なんとなく」の気分に注意深くあること、「なんとなく」気の進まないことは絶対しない、この「絶対」が肝ね、など、いくつかの、だいたい否定の感覚、が日々やっていく智慧となる。
という日常が、このところようやく「自分」に取り戻せつつあるようなので、なんだかめでたい。
で、この日常は、ほっとくと加速するから、自転車で緩い坂を下るみたいな心地よさを伴った速度感であることから、この先自動的ですよ、おいらは。
そんなとこ。45分が限度だ。
続くかも。