啓発舎

マジすか? マジすよ

書名 カンディード
著者 ヴォルテール
出版社 岩波書店岩波文庫(旧版 吉村正一郎訳 星ふたつ)

 いまの若い人たちは、星ひとつ、とか星ふたつ、というと、堺正章の「星ふたつ、いただきました!」という、テレビのシーンをイメージするかもしれないが、その昔、星いくつ、というのは、岩波文庫の値段のことだった。
 手元にある文庫の奥付には、昭和49年第十七刷と、ある。星が黒色だから、一個50円の時代か。だとすると、星ふたつは、100円!
 当時としてもわずか100円でこれだけの、なんというか、18世紀ヨーロッパの文化の粋のような著作が手にはいったわけだ。

 最近、訳者をかえて、また、他の著作を加え「カンディード他5編」というタイトルで出しなおした(思わず買ってしまった)が、この作品については、旧版のほうが圧倒的にいい、解説も素晴らしい。

 例によって、前置きが長い。

 今回もどこに脱線するかわからないが、言いたいことは、「喰えないおじさん」について語ってみたい、できればシリーズ化したい、ということ。

 ヴォルテールが世界史的にどういう位置付けで、当時のヨーロッパにあって、どうしたこうした、というようなことは、本旨ではない。はてなのリンクで研究してください。
 当方に興味あるのは、この人が、第一級の「曲者」だったこであり、比類なく面白い文章家だったこと。
 昭和49年だから、初めて読んだのは当方高校一年生。またこの時代か。
 なんでこの本を買って(立ち読みでなく)読んだのか、とっくに忘れた。多少の世界史的な知識はあったか。
 だが、一読、夢中になり、読み終わったときは興奮して、長い感想を書き連ねたことははっきり覚えている。

 機知、洒脱、文章の抑制、明晰、皮肉、世間知、風刺、冷笑、そういったものを、卓越した、なんというか、運動神経でさばいていく小気味よさ。

 ストーリー自体は他愛ない。解説(旧版)によると、「当時の支配階級に受け容れられていたライプニッツ楽天主義説をこっぴどくやっつけるために」この小説を書いたとのこと。主人公カンディードは、いたるところで辛酸をなめるのだが、その悲惨な境遇で「この最善の世では、全てが申し分ない」と師の教えを言い張るのだ。これが逆説的な効果につながるのだが、さすがに終盤になると、いささかくどい印象がある。
 そんなことより、絢爛とちりばめられた、警句、軽やかな、疾走する笑い、そのスピード感、粋、に酔えればそれでいい。これはそういう作品。

 この人については、この旧版がたいへん要領よく解説しているが、その中で、次の2つの逸話が、この人の横顔をうまくとらえている。抜粋します。

ヴォルテールは或る時暴漢に襲われて、肩先を棒でしたたかに殴られ、負け惜しみからでもあろうが、「頭を打つな。何か気の利いたものが飛び出すかもしれないからな」と声をかけて、あたりの群集を喜ばしたそうである。彼が最後にパリで狂人じみた歓迎を受けたときに、ある人の、「何と大勢集まってあなたを歓迎していることでしょう」というお世辞に、「ないない、わしが死刑になるのを見るときだって、これくらいは集まるよ」と答えた。>

 およそ人間という生き物に対する、深い洞察、しかも、それがペシミスティックにならず、妙に明るい。
 深く、怜悧に人間性を見据え、それを所与のものとして肯定する。そこには、なにかしら滑稽なものがでてくる。
 談志師匠、師匠が口を酸っぱくして言っている「落語の精神=業の肯定」は、つまり、そういうことですよね。
 古典落語も、ヴォルテールおじさんも、人間に対する洞察は、等しく世の東西を問わない。
 
ドーヴァー海峡を渡ると、同時代人でスウィフトという、これは、逆に厭世的な怪物もいる。この人については、中野好夫さんが岩波新書で「スウィフト考」という素晴らしい評伝をものしています。中野さんは、曲者コレクターだ。この大英文学者のエッセイを追いかけると、面白いおじさん達と出数多く出会えます。

 退屈な善人よりも食えないおやじのほうが、断然面白い。親交を結びたいとは思わないけれど。 
 当時のヨーロッパは、あと、ジョセフ・フーシェツヴァイクの傑作!)だの、タレイランだの、この種のくえないおやじの品評会の様相を呈しますね。

 というわけで、ヴォルテールおじさんでした。