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文学の淵を渡る 古井由吉 大江健三郎
千駄木の漱石 森まゆみ
正岡子規 明治の文学第20巻
文学の淵を渡る
大江が聞き役だ。
ごんべが種まきゃカラスがほじくる、というリズム感が心地よい。
古井が突っ込みゃ大江が受ける。
大江の発言すら地に足がついてると思えるほどの古井の浮遊感。
理屈を純化しているのか、感性の世界にぶっとんでるのか、とりあえず、何言ってるのか全然わからん。
それを大江が受けて、おいらなんかにもなんとか理解する筋道がつけるような言葉で打ち返す、という構造。
二人とも愉しそうだ。
漱石を面白がる立ち位置を共有できるか、による。
面白い、のつぼを。
鼻子のはなし。
筆者は、叔父は男爵だとふかす迷亭に恐れいる鼻子に「人を出自で判断する差別主義者」と容赦ないが、当時も今も、とりあえず人をはかるものさしなんて、だいたいそんなもんじゃないですかね。普通に横着な人々は、おれを含めて。
ものさしは、かっこいい、とか肩書とか、出自・・・は今あまり流行らないかもしれないが、人によってさまざまだ。。
初対面の奴に、いやまてよ、この人の内面は、なんて、少なくともとりあえずおれは絶対しない。まず表面でつきあいたい。
改めて。
ただ、鼻子は、とことん俗物として戯画化されているから、上の筆者の見解は、だいたい最大公約数だ、ほかならぬ漱石が読者を、そう誘導している。
おれは、そこがちょっと違う。
寒月のはがきを読んで、これは三味線にのる、と感心するところ。
おれのがきのころは、こういうばあさんが近所にいくらでもいた。
高慢ちきではあるが、なかみは、当時の、粋も解するふつうのばあさん、と漱石はきちんと描写している。
迷亭と鼻子と、食わせ物どうしそこで疎通するんですよ。私の好きな場面です。
その全体を俯瞰する漱石さん。
最たるものは、苦沙彌へのまなざしだ。
かなり、自分でしょう苦沙彌は。
当然自分を持て余してるし、狂とか狭とか恐でることも知悉している。
でも侠、でもあるのだね。
その、自分を、別に赦すということではなく、諦めた、諦観にもとづくやさしさ、みたいな、まなざし。
木曜日に集まる連中は、漱石のそういうやさしさを慕っていたのだと思いますね。
おれも行きたかった。
というわけで、暇な毎日だ。