啓発舎

マジすか? マジすよ

まずは、以下を。


外国人観光客を大量に受け入れて、日本はホントに大丈夫なのか
海外に対するわれわれの原初的な感情
堀井 憲一郎
現代ビジネス

海外からの日本観光客数が増え続けているらしい。
2020年に向けて、ますます増やすとの国の方針であるという。
そういう話を聞くと、わたしはやや不安を感じてしまうのだが、しかし、あまりそれはふつうの感覚ではないらしい。
増えれば増えるほどいいことである、というのが報道側の姿勢でもある。
なぜ、そんなことになっているのか、私にはよくわからない。
* * *
日本国内を広く世界に開放して、国際的なステージにしていきたい、と言っているかのようである。
私には、そんな国民的合意が成立した記憶がない。
そもそも、英語会話ができる国民の割合が低い。日本国民も、国民総員で英語会話ができるようになろう、と考えているとはおもえない。自前の言葉でやっていきたいとおもっている。
そこは、いつも他人事だ。異国のことは、外つ国と言っていたむかしから、ずっと海の向こうの話であり、他人事でしかない。
その心情は変わらない。おそらく、日本列島の地形が変わらないかぎり、その心持ちが変わることはないだろう。(ウェゲナー的に列島が大陸とくっついてしまうことでもなければ、というような意味で言っている。)
外国人観光客の受け入れを押し進めている政策に違和感を感じるのは、このポイントにある。外国人が大勢やって来る状態を、日本人がほんとうに歓迎しているようには、私には見えない。
◆日本の同調圧力が意味するもの
われわれは、民族的同意事項をあまり言葉にしない。
おそらく数千年をかけて、そういう訓練をしてきた民族なのではないか、と私はおもっている。言葉にしなくても同時に動ける訓練を何千年とやってきたのだ。
何も言わずに、多くの人間がすっと同時に動けるというのは、かなりの訓練が必要である。集団の組成員もあまり入れ替えないほうがいい。いつのまにかそういう集団たろうとしていた、というのが私のぼんやり想像するこの民族の祖型イメージである。
こういう集団だから、自分の考えを表すのがヘタな人が多くなる。ディベートを得意な人たちは生み出さない。別の集団との交渉術に長けた人間は、別途に鍛えないと集団内からは生まれてこない。
しかし、集団行動の統一性は高い。緊急時にも個々人だけで行動しない。
これはこれで、いろんなメリットがある。そのことは言葉にされずにみなが感じており、広く共有している。(言葉にしない訓練なのだから、言葉ではあまり伝えられていない。)
訓練とは、日常生活での同調圧力に現れている。日々の繰り返しの訓練と犠牲のうえで、言葉にしないでも同時に行動できる人たちができあがっていく。それは何かの命令というよりも、この列島に住まいなす者の宿命のようなものなのだろう。
そういうシステムがこの列島で動物として生き延びていくために、とても大事だったのだろう、と想像するばかりである。
外の国とのやりとりは苦手である。外交分野に有能な人材を登用し、国のもっとも根幹にある仕事だと認識していた時期が、かなり短い。
いっぽうで、海外の文化や、海外の人をとても珍しがる。有り・難い、という意味で、ありがたがる。
ただ、珍しがるという行為は、海外の文化を深く理解しようという態度ではない。異文化との接触をもとに、自分たちの文化の特殊性を確認するという作業でしかない。
自分たち以外の文化もあることを知り、驚き、珍しがり、でも私たちにはこの文化がいいな、と確認する作業である。外出のあと「ああ、わが家が一番くつろげる」と言っているのと同じだ。
「欧米は、日本とは違う」という言いまわしも、本来はこの確認作業でしかない。よく、コンプレックスを抱えている人たちによって(だいたい発言者本人の優位性を保つために)、日本を低くみなす言説が放たれることがあるが、耳を貸さなくていい。
よそはよそ、うちはうち。
さいころ、親によく言われたものである。うちだけが友人家族に比べて何か劣ってるようにおもえ、そのことを親に訴えたとき、親は、そう諭した。
国レベルでも同じことだろう。私はそうおもう。「日本(うち)はこのままではだめだ、欧米(よそ)を見習え」と感情的になって走って騒ぐ子たちには、よそはよそ、うちはうち、と言って、立ち止まらせて、落ち着かせることが大事である。
◆われわれの原初的な感情
われわれは、海外の人やものを珍しがる。
日本の多くが村ばかりだったむかしから、外から来る者をまれ人として、歓待することがあった。珍しいものを尊ぶ気持ちである。
ただ、あくまで珍しい、という感覚である。どこまでも外のものでしかない。
海外の人を珍しがるのは、受け入れるのに積極的だということではない。逆である。完全に馴化するか、すぐに旅立ってしまうもの以外は受け入れない、ということを示している。
自分たちの生活に影響が出てくる存在に対しては、警戒心が強く、ときには強く反発する。
アタマで考えると開明派になりがちである。国を開いて、海外の人も事物も取り入れ、自由闊達な国であろう、と考えてしまう。とても正しい。世界に恥じる部分がない。
しかし余裕がなくなると、もっと原初的な感情が蠢(うごめ)く。自分たちのエリアは自分たちのものであり他のものの侵入を許さず、口出しも認めない。排他的で独善的になる。アタマでは制御しきれず、カラダが勝手に動く。こういう行動は、世間から褒めてもらえない。
しかし追い詰められたら、アタマではなくカラダで動く。最終的に強いのは原初的な感情のほうである。アタマで考えていたことなどすぐに吹っ飛んでしまう。
人間は、というのが広すぎるのなら、わが民族は、そういうシステムで動いてるとおもう。
ふだんはアタマが制御しているが、一朝有事あると、カラダのほうが先に動く。開明的な思考ではなく閉ざされた独善的なドグマによって行動する。おそらく、われわれは、そういうふうに作られているのだ。その仕組みだけは理解しておいたほうがいい。
感情をおさえて理性が勝つように日々努力するのはいいし、人類はよりよい社会にむかって進歩しているという根拠の稀薄な妄想を抱いているのも、ふだんは、べつに構わない。
ただ、われわれは知的に開明的にだけ行動できるわけではない。いざとなれば感情的な行動を(後世から見れば意味不明の行動を)、取ってしまう集団なのだ。そういう諦めというか、自覚を持っていたほうがいい。クルマの奇妙なクセを熟知して運転したほうが、少しは安全だからである。
◆身も蓋もない目的
アタマで考えていることではなく、原初的な感情に耳を傾ければ、けっこうものごとの筋道は簡単になる。
われわれは、海外からの観光客の金が欲しいだけである。彼らを好きなわけではないし、異国人との接触を増やしたいわけではない。
目的は、どこまでも彼らの金である。漢字を多くするのなら?経済効果の高まりを望んでいる?だろう。まあ、金だ。
観光客をもてなすことによって日本の評判がよくなるなどということは、末節にすぎぬ。評判を上げ、国際的な地位の向上をめざしているわけではない。(もちろん評判がよくないと、観光客の増加は望めないから、商売として好評判をめざさないといけないが、そういう話ではない。)
観光客が来るのがただ嬉しいという問題でもない。われわれは、彼らをべつに愛してなどおらず、愛想はよくするが、ただ、彼らの金を必要としているだけなのだ。 
身も蓋もなく言えばそうなる。
そのことをきちんと意識しておいたほうがいい。
◆理念のなさが気になる
国内にいる外国人が増えるということは、金も増えるが、面倒も増えるということである。面倒になったときに、こんなによくしてあげたのに、などという感情を交えると処理もまた面倒になってしまう。金だけの関係である、と淡々と処置したほうがいい。
そういう周辺でいろいろと不安を感じている。
ひとつは、いまはまだ余裕があるから愛想よくしていられるが、調子にのって海外の人々をどんどん受け入れていると、いまは眠っている(そして絶対に起こさないほうがいい)異国人たちに対する、ヤマトの人々の暗く原初的な感情を呼び起こす可能性がある、ということである。
私の考えでは、われわれの外つ国の人々に対する意識は、江戸時代から変わらず、戦国時代から変わらず、おそらく根底は弥生時代から変わっていない。進歩も進化もしない。どこかに臨界点があって、いきなり排他的になる。たぶん、そう決まっている。しかたがない。
海外旅行客からの収入もばかにはならないのだろうが、根源的な民族的気分のダークエリアに踏み込むことは絶対に避けたほうがいい。そうおもう。それがひとつ。
もうひとつは、さほど入念な準備をしたわけではないのに、いきなり、ここがわりに楽に金がたくさん入っていそうだと見切って、力を入れ始めた(ように見受けられる)ところである。
準備というのは施設などのハードの問題ではない。ソフトの問題である。
最初に書いたように、英語会話の能力を、国民全体でべつだん本気で上げようとしていない。完全に現場任せであり、かなり混乱を来している。東京で暮らしていれば、そこかしこで外国人との折衝で軽く混乱している現場をいくども見かける。
とりあえずどんどん国に入れてしまえばいいだろう、というような方針なのだろう。
そこが、金のことしか考えてないように見えるポイントである。
理念がない。広く開示した国になるというとんでもない大変換を目指しているという説明もないし(それは説明されても受け入れられないとおもうが)、かといって、一部の人間を訓練して外国人対応のスペシャリストを養成しなさい、という指令も出していない。
海の外の人たちが大勢やってきたらどうするか、というのは、かなり国の大事にかかわる案件だとおもうのだが、深く考えておらず、入ってくる金ばかりを見ているようで、とても危うく感じる、という話である。
また、「とにかく金が欲しい」と国が宣言してるあり様が、なんかみっともない、どっかこっ恥ずかしい、ということでもある。
経済成長は、国にとってとても大事なことではあるが、少しは豊かな国になったのだったら、うそでもいいから、何か理念を掲げられないのか、とちょっとおもう。仁とか智とか義とか、そのへんからひとつみつくろって掲げたらどうか、と。
19世紀後半から20世紀そこそこまで、かなり頑張って理念ばかり掲げてやってきたのに、世界戦争をしかけたらめちゃくちゃ負けてしまって国がほぼ滅びたのでそれで懲りた、というのはわからないでもないが、いやはや、そのままでずっと行くわけにはいかないでしょうとおもう。「金さえ儲ければとても偉い社会」はそれはそれでつらいですからね。
われわれは常に進歩しつづけている、と考えないほうがいいとおもう。そういう話でもある。
まあ、すごく困ってる旅行者は助けてあげたいな、とはいつもおもってますけどね。

外国人観光客については、同意見だが特に新しい知見はない。
誰が来いといった、うるさいばかりで迷惑だ。金だろう要するに。
つづめて言えばこんなところ。
春の千鳥ヶ淵に爆買いをぶちこんで「民族的同意事項」を徹底的に破壊したつけは、誰が払うか。
ということでせうか、堀井さん。

この論文が秀逸なのは、挙げて、二番目から三番目のパラグラフ「われわれの原初的な感情」にかけてにある。


筆者の言う「民族的同意事項」は、わかりやすく言うと、たとえば美意識だ。

春霞の空に映える花を仰いで抱く感慨。

はかなさとか移ろいとか記憶とかゆらぎとか、時間とか空間に関するあらゆる語彙を引っ張り出しても言い尽くせない眩暈のような感覚。
日本人はこれを言語化しない、と筆者は言うが、ある意味それは当然で、なにを言っても陳腐になる。
しずこころなくはなのちるらん、と詠嘆するのみである。


そういう引き出しの集合体がこの国の民族なんです、みんな知ってるように。
四季の移ろいを愛でて、つましくやっていくんですよ、鎖国して。



春の千鳥ヶ淵を徹底的に破壊したつけは、誰が払うか。