身捨つるほどの祖国があるか、ということだ。
昨今の出来事をみるに。
祖国、に限らず、ここに、任意の集団をあてはめる。
身捨つるほどの会社、学校、結社、宗教、はありや。
これは言うは易いが、そのためには、個の足場が要る。
前回の続きの話になってくる。
しかし、行うは難い、ことは別になく、踏ん張る必要はさらにない。
そっちとこっちを見極めればいいだけだ。
会社だの学校だのは、みんな「そっち」ですよ。
国もそうだ。
一時期関西にいて、御多分にもれず東京に戻るまでずっと違和感を感じ続けていた。ここも同じ日本なのだとしたら、国に帰属するという考えは見直さないといけない、とつくづく思いました。
かといって、育った環境から自由ではいられない。
それはかけがえのないことです、ありがたいです。
微妙な中間色のイメージだ。「こっち」はデリケートです、もやもやしてます。
グローバルとやらで灰色に塗りつぶしてはいけない。
ひとつ、いま思うのは、言葉だろうか。
話し言葉。
その、音。抑揚。
で、たまに、「こっち」を感ずるのが、たとえば、ケチビシのぼうやだったりするわけです。こいつが若いのに東京言葉だ。それで、話だけは聞いてやってるの。じいちゃんの代から奥沢だとさ。
で、グロス3パー以下物件のモデルルームを見に丸の内に行くことになってしまった。
ついでに帝劇でうなぎでも食って帰るか、とか呟いたら、菊川、大好きです、とか言うから、勘違いするなとは釘をさしておいた。
ハハ。