啓発舎

マジすか? マジすよ

三島由紀夫が内田百�瑶評を書いているのを知った。
三島と百�瑶の取り合わせは対照的だ。
饒舌と寡黙。大仰と控えめ。
読んだ。いつもながらの、三島の風通しの良い批評だった。
三島は自分と資質の異なる作家に対して、フェアだ。自分の備えていない才能に対しての真摯な尊敬が伝わってくる。
文学で最も容易な技術は、読者に涙を流させることと、猥褻感を起こさせることである、としたうえで、百�瑶を、人に涙を流させず、猥褻感を起こさせず、しかも人生の最奥の真実を暗示し、一方、鬼気の表現に卓越している、と評する。
更に「氏が、少しも難しい観念的な言葉遣いなどをしていないのに、大へんな気難しさで言葉を選び、こう書けばこう受けるとわかっている表現をすべて捨てて、いささかの甘さも自己陶酔も許容せず、しかもこれしかないという、究極の正確さをただニュアンスのみで暗示している」と。
見事です。
ここで否定的に挙げている「観念的」「自己陶酔」が三島の二枚看板であることを思うと、自らを恥じた発言か、とも深読みしたくなる。


常に一軍の本棚にある初期の随筆を読みだしたら、夜中になってしまった。
こうして、たまに百�瑶に遊んでもらうのは、私の愉しみです。