おととい、ぐらいか、に茂木氏を持ち上げた以上、落とさないでいては失礼だ。
ということで、最近の投稿から。
検定教科書のことが、ニュースになっていた。私は、個々の歴史的事実の検定よりも、検定制度そのものの方が気になる。これは、以前から言っていることだけど、改めて今朝、振り返りたい。
小中高の教科書には、「検定」制度があるが、大学の教科書にはない。これは当たり前のことで、学問というのはオープン・エンドで、何が正解かわからないからこそ学問なのである。では、小中高では学問をやっていないのだろうか。
現状だと、検定がある小中高と、いきなり放し飼いみたいな大学の間に、大きな落差がある。だから、高校から大学に進んだとき、膝かっくんになる人も多い。大学に行かないと、検定のある教育しか受けないことになる。これはもったいない。
そもそも、小中高で検定のある教育を受けた人が、いきなり大学に行っても「残像」があって、そういうものだと思ってしまうから、4年になって卒論を書く頃になって「はっ」と気づいて、「違ったかも」と思っても、もう遅かったりする。
文科省の方のお気持ちとしては、全国津津浦浦、ある一定の教育水準を保証したい、というのが検定制度の99%で、時の政治でうんぬんされる歴史問題は正直検定の意義の1%にも満たないと推定するが、それにしても以上のような問題がある。
学問は、小学校の頃から始まるのだと思う。正解がなにか、そう簡単にはわからない。だから、学問は、調べたり、考えたり、話しあったり、同意したり、意見が一致しなかったりというプロセスの中にこそある。それを小学校から経験する方がいい。
小学校から、学問の本来のあり方を経験することで、大学に行かない、あるいは高校に行かない方でも、ある構えが身につくし、大学に行く方は、入った時に、そういう姿勢が出来ている。筋肉がついている。それは素晴らしいことではないか。
私は検定制度を廃止すべきだと以前から主張しているが、政治的にそれがすぐには難しかったら、検定教科書が子どもたちの脳の滋養のごく一部、参考程度、ナショナル・ミニマムだと認めて、あとは、広大で自由な学問の世界に小学校から接することが子どもたちにもいいし国益にも資すると思う。
要すれば、自分で考えるのが学問よ、小中高は、検定だから考えないのよね。検定やめろよ。
というだけのこと。
以下、当方見解、賢明な読者諸兄には蛇足だが。
自分で考える奴は、検定があろうがなかろうが、考える。
小学校だろうが中学校だろうが考える。
自分で考えない奴は、大学生だろうが、大学教授だろが、考えない。
学問なんて大層なものを振りかざす必要なし。
以上。書いていて、やはり蛇足だ。
で、茂木氏再登場。
急所は、以下だ、面白いので再度引用する
「現状だと、検定がある小中高と、いきなり放し飼いみたいな大学の間に、大きな落差がある。だから、高校から大学に進んだとき、膝かっくんになる人も多い。大学に行かないと、検定のある教育しか受けないことになる。これはもったいない。」
検定教科書使ったから膝かっくんになるのか、それほど検定教科書は威力あるのか。
関係ねえだろ。
膝かっくんは、「自分で考えない」という能力を小中高にわたって保持し続けた者のみに与えられる栄誉であります。