啓発舎

マジすか? マジすよ

一眼レフもそば打ちもしないので、時間は、ある。
音楽もひとやま越えた。6月に室内楽の小コンサートがあるのだが、それには出ない。
ブンガクでもどうか、というのはこのブログでも再三つぶやいているところだ。
で、手を出しては退き、出しては退きを繰り返している。

最近、これをやっと人のせいにする勇気がでた。
おれさまの感受性の問題ではない。
どうみてもブンガク業界は人を得ていない。

きのうの掲載分は勢いで書いたので抹消もありかと思って読み返したが、言いたいことがむき出しなのでそのままにする、固有名詞はどうするか、考えるが。

女子供、婦女子のなぐさみもの分野は、措く。勝手にやってくれ。

そうではなくて、大の大人を相手にするリングに、基礎体力のある奴がいない。のではないか。

たとえば、文芸評論をやる条件に、建売住宅を最低5棟売りさばくこと、とか資格を設けてはどうか。
たとえば小学校の教師の資格として、教師相手の教材営業を5年やること、って条件には誰も異論はない、おれの周囲半径3メートルでは。


肥大した、脆弱なだけの自意識を「繊細」という語で呼称する小サークルじゃ、文芸誌が売れないのも当然である。

図書館にはいくので、そして、図書館には必ず売れない辛嘲だの蚊学界だのが置いてある、を我慢して手に取ったことも何度もある。

世間様の風通しがない、違和感の淵源はずばりそれだ。
人の泥沼で苦節30年のおやじをなめてはいけない。

漱石はなぜ面白いか。おやじの鑑賞にたえるか。
それは、漱石が、ちゃんと大人だからです。

おれは、ブンガク業界は、世間を知ってるおやじを一定数ぶちこめば、面白くなる、と思う。

池澤先生は、それはそれで、別の意味で面白いので、まだ連載続けるようだから、しばらく笑わせてもらおう。
ブンガクの話は、これでひと区切り。