再び本の話。
図書館。
三島の本は手に取ってみる癖があるのと、こないだBSフジで当方に受けまくったばあさんの兄貴が書いたというので、重いので迷ったが、ただだから借りた。
面白かったぜ。面白いつぼは著者の意図とは全く異なると思うが。
まず、三島だが、おれのイメージは、こうだ。
以前、CMで、こういうのがあった。
放課後の人気のない教室。
なにやら女のわめく声。
「ロミオよ、どうしてあなたはロミオなの〜(適当)」
陶酔する女生徒A。身振り手振りつき。
画面かわり、モップ、バケツをもったおじさん。用務員さんでしょう。
「また、やっとるよ」
三島は女生徒、モップおじさんがおいら。
面白いのよ。
今回の物件は500ページ以上あるが、中身は一言でいえて、ゴシップです。
しかも、うらの取れない密室情報が多く、証拠能力には問題あると思うが。
なかでも晩年ですね、やっぱり。
開高健が言ってたんだと思うが、三島は第一級の批評家、二流の小説家、というのにおれも賛成。
ほめている。
三島の評論は、どれも風通しがいい。明晰。
見えている。
当然、自分のこともお見通しだ。
だから目をそらす。
必死で首を捻じ曲げて、自分を見ないようにする。
見たら最期だとわかっているから。
そのつらさに負けたんですね。
憂国だの蹶起なんて目くらましですよ。
見れば見たで石になってしまうのだが、おれは、最後まで自分を見ないであの世に行ったと思う。
どっちにしろ、長いことなかった。
おれは、この人、五感と外界の間に、いつもヴェール、なんてもんじゃない、木綿のシーツみたいなものがあって、違和感を感じ続けていた人だと思う。
小説が、およそ人間のあらゆる感受性に働きかけるものだとすると、そんな人間に小説など書けるわけがない。
仮構はできるが、書き割りは作れるが、数寄屋はむりだ。
それが、本人、それこそ死ぬほどわかっていた。
たとえば、きのうたまたま書いたから漱石さんに登場願うが、漱石は、句を読んでも漢詩書いても、そこから血がにじみでる。
そこに感応する。
三島さんは、小学生が大人に褒められようと思って書いた、秀才の作文です。
いやみしか、ない。
それを生涯じたばたやっていたのが面白いのです。
それがわからず周りではやしたてる、たとえば今回の村松某も、妹も、一蓮托生で面白い。
真剣だから。
お笑い芸人が、仕事でお笑いやってるのなんて、見てても全然面白くないでしょう。
笑いのツボは、真剣にやってるのを勝手に面白がるのが最上なのであります。
中学のころは、感心して、読んだ、優れた作文だったから。
10年ぐらい前、月修寺のモデルになった寺に行くので改めて天人五衰を読み返したことがあったが、ここまで破綻するか、と改めて感心した。全然別の意味で。
三島の評論はどれも面白いと書いたが、小説でも、てなぐさみみたいので二三これはと思うのがあるのでけなしてばかりもなんだから書いておく。
「卵」と「海と夕焼け」。
両方短編。