このところ、必要があって墓だの霊園だのを検索するものだから、日経ネットを見てもこのブログを開いても、やたらにそれ関連のバナーがでる。
必要があって、というのは正確なものいいではない、まだ、そういう状態ではない。
平たく言うと、老母からリクエストがあった。
というのも正確ではなく、昨日、ある程度の材料をもって本人との会談に臨むと、あたしゃそんなこと言った覚えはない、のだそうだ。
でも、まあ、ということで、あれやこれややっていて痛感したこと。
これは、もはや母親のみの問題ではない。
おれ自身のことでもあるのだ。
墓とかそういうことはいいとして、当方のテーマも、あとは死ぬだけ。
それまでになにをする、というのが、一切ない、どこを探しても、ということをしみじみ思ったわけだ。
そりゃ、息ができる限りは、のらりくらりやっていくが、それ以外、ほんとにどうでもいい。
おれ、いま、なにしたいだろう。
せめて、静かで、少しの緑があれば、あとは、さえぎられない時間の流れがあれば、ほんとにどうでもいいや。
それで、くどいようだが、「アップデートする仏教」の二人組が悟りだのマインドフルだの口角泡をとばすのに改めて違和感なのだよ。
彼らなどはまだいいほうで、「人間如何に」の類をあれこれ言う奴はみんな碌でもないぞ、皆の衆。
あの世と交信するように老母とやりとりをしながら、ずっと、そうか、おいらもあとは死ぬだけか、と思っていた、とさ。