岡田准一は、かっこいい、と思うので、出来れば最後まで見たいとおもうのだが、くじけてとなりのチャンネルに寄ったら、どこかでみた顔という嫌な予感があたって中沢瞋一だった。
まだいたか、というおれの個人的な思い込みを一般化してはいけないことはよく承知しているが、どうか良い子のみなさんは、この人がでてきたらチャンネルをかえようね、正しくものを考える邪魔になるからね。
浅田とこいつはかつてブームだった。
特に、この人の書く分野は、当方が当時むきになっていた方面と重なるところがあり、割合まじめに読んだ、当初。
で、じきにわかったことは。
難解なのでも高度なのでもなく、単に話のつじつまがあわないんですよ、この人の書くものをロジカルに追いかけていくと。
浅田は、そういうところはなかった。構造と力なんてわからないところだらけだったが、おいらのリキが足りないからだ、と納得できるわからなさ、だった。
要は、ちゃんとレンガ積んでおフランス現代哲学の基礎固めをしないとね、と思い、今日までそのままになっている。
そこへいくと中沢はおいらとかぶるので、ハンパにわかってしまうのよ、その、宗教方面、しかもチベット密教とかタントラとかとか、となると。トランスパーソナル心理学なんてのにもはまりましたよ、いま、ほとんど学問として認められていないようですが。
まあ、そういうこと。
人文系のこういう分野は、もともと言いたい放題のところはあるけど、ユングなんかもいまではオカルト扱いだけど、矢も盾もたまらず、とか、そういう内発的な、どしてもおれはこれが言いたい、というそういうところがあるわけだ。
この人のは、珍奇な言葉をちりばめて人を煙に巻く、ことそのものを書くことの最終目的としている、と、単なる虚言癖のおじさんと理解すると、話しのつじつまがあう。
なにが言いたい、と主題を探って読んではいけない。誠実な読書にむいていない。
オウムの記憶も今では風化してましょうか。
ほんとは、その番組のあとの道成寺がよかった話しがしたかったのだが。
少しまじめになってしまった。