啓発舎

マジすか? マジすよ

ビール生ワイン赤、白、ビール瓶500。
松岡正剛のサイトにほんとに久しぶりに、みた。たまたまひっかかった。
重い。なかなか遷移しない。
仙台学の雑誌、あの表紙もふくめ、ちょっとなつかしかった。5月の上旬、おいらも被災地にいた。
3.11以降。
欧州藤原氏ふくめ、ご当地もの。
6月ぐらいになり、イスラムに移行する。
いま、仏教全開。しかも、伝来。

わかる。思考の推移も、なんだろう、絵に書いたように、わかる。

いま、仏教伝来。
で、今日最新のやつをみると、いまだに、ナーガールジュナがどうした上座部がこうした、と。

松岡の壁は、これなんだよ。彼は、この手前で、この先も、あーしこーした言い募るんだ。

何年か前、コンフロントか、なんだかそんな名前の建築方面の雑誌で、松岡氏と、楽の当代と花の、あの人、白洲さんに、なんでいつももろ肌脱ぐのよ、と突っ込まれたあのおじさん、名前、ホントにでてこない、と三人で対談したのだった。
京都の建築だの数寄屋がどうしたこうしたというテーマか。

松岡さんは「遊」のころから、澁谷のA館B館あたり、ジャンジャンにしょっちゅう行っていたころから、この人からの活字の洪水は受け続けた。
和が本質、というのもとっくにわかっていた。

で、鼎談。
感性でぶっちぎられていたのだった、花の人に。
わたしゃ、楽の当代は、会ったこともないし、ちょっと、引いているんですね。とりあえず、はったる奴だ、ということはわかったから。
あと、代々受け継ぐものへの重さの意識も、それもわかる。
で、おまえは、なんなんだ、というところ。

花のおじさんは、実は、当方は、手放しだったりする。
太陽だかなんだかで、最初何みたか忘れたが、どきっとした。
二子玉川で、えらい高い講習をやっているようで、ほとんどそれに申し込みかけた。

頭でっかちになればなるほど、この国の、あの、本質に、迫れない。

この国が唯一ほこれることがあるとしたら、美、とか普遍、とかいうことに、ぎりぎりまで肉薄した、ということで、だいたいそれは江戸初期までで終わっている。
ただ、筋道はあるからそれは辿れる。
三島某とか松岡なにがし、とかは、智、があるから、それをトレースしようとする。
ところが、智では、或いは、智であるが故に、徹底的に拒まれるのだ、この国の、その究極に。

究極、本質、普遍、というものへのアプローチは、誓っていうが、この、美、とりあえず、この言葉しかないからこの言葉に仮託する、を通じてが、いちばん自然。

なりふりかまわずこの道を突っ走るか、どうか。
もちろん命がけだ。

この国に、この国の伝統をしょって生まれたからは。

井筒さんは、志半ばで倒れたのだろうか。
加藤周一さんは、もちろん、三島松岡の系譜だからこれはまあ、しょうがない。
松岡氏の、あがき、は、ちょっと正視するのにはきつい。

じゃあ、誰だ。