◆3カ月たった。
◆今回のことについて個人的にしろ、世の中全体についてにしろ論評の類をするのは、差し控えている。第一、社会全体を見渡して毎日やっているわけではない、自分にそんな展望などないことはよく承知している。
◆したがって、皮膚感覚でしかものが言えないのではあるが、でも、その、皮膚感覚ですこし感ずるところがあるのも事実だ。
◆今回のことと結び付けて言うのは、気が進まないが。
でも、まあ、いいか。もう三カ月たったら全然違うこと考えているかもしれないが。
無常、ということですね。体感するのは。
これ、割合月並みな感想であることは、わかっている。
被災地で買った、「仙台学」という地元紙の特集号でも、複数の方が、言及していた。
そりゃ、被災地に立って周囲を見渡せば、誰でも、圧倒的な無常観を覚える、おれもそうだった。
で、みんな言うのが「言葉を失う」。おれもそうだった。
この「無常」ということですぐ浮かぶのが、鴨長明先生。
この人も、当時の戦乱とか災害を丹念にルポして、世の中無常だ、と喝破したのだった。
そういいつつも、方丈の庵で草庵を結びつつも、その、無常に徹しきれない自分を客観的にみる視座も失っていない。
この人とか兼好さんの住んでいた「中世」は、思いをはせると、ほっとする、おいらの拠り所になっている。
ともかく、戦乱だの巨大な自然災害に接し、世の中なにがあるかわからない、諸行無常なり、というのは、800年前、ぐらいか、に、先人がとっくに言い張っている。
おいらは、皮膚感覚なので、もっと俗だ。
築く、とか形成する、とか、成長する、とか、発達する、とか、もともと、そういう言葉には、あまり反応しないおやじではあったが、もう、そういうこと、いいな、勘弁だな、と、そういうこと。
進む、のか、吸い寄せられるのか、なし崩し的に押し出されるのか、兼好さんが言うように、後ろからやってくるのか、それはわからないが、必ずやってくる定めにむかって時を過ごすだけだ。
年のせいもあるかもしれない。
で、今日のように自分のコンセントを抜いてぼーっとすると、結局、ああ、時がすぎていくなあ、と、そういうことですよ。
自分たちが生活している基盤がこれほど脆弱だったのか、ということは少なくとも東日本に住む人全員がとことん体感した。
所有、ということについての意識は、不動産から車から無形物に至るまで、これから少し変わっていくような兆しは、あるようだ。
身一つで最期にくるこの世で唯一確かなあの事実にむきあう。
そういう、括りが、自分のなかでは、少し、幅を利かしているように思う。
覚悟だの、メメントモリだの、そんな大層なことでなく。
で、そういういずれ自分も、という気持ちでぼんやりしていると、時は過ぎる、時空のなかにいる、という認識、というか、体感で自分が満たされる瞬間がある、と、そういうこと。
いま、そういう気分。
ご退屈さま。