啓発舎

マジすか? マジすよ

澁澤龍彦

書名 高丘親王航海記
著者 澁澤龍彦
出版社 文藝春秋

 澁澤龍彦とのつきあいも長い。中学の頃、熱烈な信者がいて、勧められるままに何冊は拾い読みしたが、ペダントリーが鼻について、なじめなかった。 
 奥附けを見ると、1988年1月とある。私生活が怒涛の勢いで、本を読むどころではなかた頃だ。どうして買ったのか、全く覚えがない。書評につられたのだろうか。遺作だからか。
当時は、それなりに面白いとは思ったが、再読するほどの興は覚えなかった。

 それが、書庫整理のついでに今回何気なく手にとって、びっくり、一気呵成に読み通してしまった。
 年はとるものだ。
 ほんとうに肩の力が抜けたことにより生ずる巧まざるユーモア。融通無碍。風通しのよさ。ある種の諦観。
 構成は、ずばり水戸黄門だと思う。ご老公(親王)と助さん角さん(安展 円覚)の珍道中。道中さまざまな出会いがあってそれぞれがエピソードになる、という展開も同じ。黄門さまと違うのは、出会う相手が、なにやら異形のもの、だということ。
 例えば、熱帯の密林の中で異形の生き物に出会う。「おれは大蟻喰いというものだ」と名乗るそいつに対し、円覚(助さんね)みるみる怒りに顔をまっかにして、こんなところに蟻喰いがいるはずがない、と怒る。大ありくいは、いまから600年後コロンブスが新大陸で発見するのであって、時間的にも空間的にも背理だ、というのだ。アリクイ反論して、自分は大蟻喰いのアンチボデスなのだ、と力説し、こんにゃく問答を展開する。
 著者は、遊んでいるのですね、自らの該博な知識の海の中で。晩年になって、そのゆとりができたのですね。それが今の私には心地よい。

 興がのって、この人の短編集ものぞいてみた。日本文芸社からでた二巻ものも実は持っていたのだ。
 この中の、「金色堂異聞」なんか面白いです。作者が、思い立って奥州平泉に遊ぶと、タクシーの運転手の老人が藤原基衡だのだれそれだのを恰も同時代の知り合いのようにあげつらう。作者、ふとひらめいて、「もしやあなたは藤原清衡さんではありませんか」と問い掛けると、老人は・・・という展開。終わりは、その清衡老人とそば屋でビールをだぼだぼ注ぎながら話しをする、というアンチクライマックス
 初期の書生っぽいものもあるのですが、後年の作品とは雲泥の差。後のやつは、ほんとに力が抜けていていいです。この人、晩年になって花開きました。衒学趣味が発酵して豊饒な味わいになる。若いうちの寄り道はするもんです。