まず、引用から。
ある方のブログより。
コンサートマスターの☆さんとのプレトークでの●×さんの発言には共感した。チャイコフスキーの第5は外面的ではない内面的な苦しみを表現した音楽なのに、多くの演奏家は外面的に演奏しすぎる、そんなことを言っておられた。その通りだと思う。私はチャイコフスキーのしばしば外面的になりすぎる面を苦々しく思いながら、交響曲第5番と「エフゲニー・オネーギン」の内省的で地味な響きが大好きなのだ。
◆内面的な音楽と外面的な音楽について
結論からいうと、60年音楽を聴いてきて、「内面的」と「外面的」の違いが未だにわからない。
というより、分別できない。
不燃ごみと可燃のブンベツだって、心許ないのだから、いたしかたないか。
弾いていて、なんとなく悲しげだから内面的で、どんちょんさわぎは外面的、というのだろうか。
世間的な評価からブンベツを試みると。
マーラー9番 内面
リヒャルト の管弦楽曲 ひっくるめて外面
みたいな感じか。
わからん。
内面外面はピンとこないが、笑えるかそうでないかは、しっくりくる。
実際、弾いてて笑いたくなる、たまにほんとに笑って指揮者ににらまれることもある。
指揮者は、ダメな奴はとくに、奏者の表情の変化に敏感だ。
もどす。
冒頭の引用がたまたまチャイコなので、チャイコについて言うと。
悲愴の終楽章は、笑える音楽の典型だ。
おれはチェロなので、陰々滅滅を主に担当するが、これでもかこれでもかのダメ押し攻撃は、弾いててほんと、笑える。
チャイコンは、本番で実際アクシデントを経験した個人的な事情があるにしても、笑いの宝庫だ。
で、チャイ5が「内面的な苦しみ」を表現しているそうだが、どこだ、たとえば。機会があればご教示願いたい。
音楽で、内面だの外面だののたまう奴は、例のやつね、ととりあえずおれは分類して、聞き流す。
例の奴、というのは、「音楽」そのものでなく「音楽を語る私」にうっとり、の類型です。
●●する奴は××とみなして敬遠する。
偏見大魔王といわばいえ。
ヒトと深くまじわらないですますための工夫です。