啓発舎

マジすか? マジすよ

過去の時間の流れは記憶に属するから、伸び縮みする。
年をとるにつれて昔の時間が鮮明になる、とよくいうが、わたしにも、それはあてはまる。
たとえば、生まれて18年ぐらいのあたりで時間がとんで、気がついたら京都で美の不意打ちとかつぶやいていて、また気がついたら赤坂で飲んでました、というかんじ。
過去との邂逅、ということがまれにあって、おとといがまさにそうだった。
6年前ぐらいにもあった。
それで、いまどうなっているかというと、こうなっている。
まずは、ややこしい、ということばが浮かぶが、これを肯定的に言い直すと、日常が少し、とはいえない、有意に密度が濃くなっているわけであります。

この6年ほど。
それがこれからどうなるか。
思えば、おれの12歳ぐらいから6年間は、ビックバン前夜というか、ビックバン後のコンマ何秒というか、べらぼうに濃い時空間だったので、それが30年以上たってつながると、濃い、というか錯綜というか否応なく働きかけるあれやらこれやら、というのがたちまちつながる。
配線が。
私に対する影響力が。


水の如くといきたいところだが、少なくともおれはどうみても君子とはいえない。
更にややこしくなる予感がもちろんあるが、豚児のおれが思いつくのは適正な距離感です。
互いの引力で対消滅しないよう、10億光年ぐらいの距離を保つ。


どうなるか。
ほとんど自分が他人事だ。